09

“その時”は、意外と早く訪れた。

「え?えぇ…うーん、いいけど」

終礼と掃除を終え、ようやく帰ろうと伸びをした放課後。
端末を耳に当て、靴箱から黒いローファーを取り出す悠乃が、歯切れ悪く電話越しの相手に頷く。
最初その声はいつものように甘く、加えてとびきり喜んでいたので満月は彼氏からなのかと思ったのだが、その問いは結構呆気なく否定されてしまった。
しかもその声のトーンは次第に急降下していき、今では彼女にしては結構低い方の頷きである。
煩わしさが隠せてないその態度に、また肩を小突いてやはり彼氏かと訊ねれば今度は大きく否定された。
とばっちりの火花に慄けば、悠乃は一つ息を洩らしてから再び電話へと戻る。
二人して靴を履き替え、昇降口から出てゆっくりと茜色の空の下を歩いた。
クリーム色の結波の校舎も、日の光を帯びて少し朱く輝いて見える。
一部の部室や体育館にはまだ灯りがついていて、他人事のように大変だなぁと感じた。
そんな風に満月が学校を見上げている間にも、悠乃は隣でだらだらと会話を続けている。
何か頼まれているようだが、はっきりと拒絶するわけではない。
彼女にしては珍しいこともあるものだと思いつつ、黙ってその隣を歩き続けた。

「今?今はもうすぐ結波を出るところよ」
「はぁ?ちょっとぉ…どうしたの、何をそんな怒ってるの。え、怒ってない?嘘よ、こわいもの」
「電話じゃダメ?友達がいるの、隣に」
「ん、あー…じゃあ何か二人分奢ってくれる?え?お抹茶は飽きたわ、他にして」
「…そうねぇ、じゃあ仕方ないから今日はそれで妥協しようかしら」

ピッとようやく、悠乃が通話を終えたのはそれから十数分後だった。
校門のところで自然と止まった彼女の足が再び動き出すことを、満月はグラウンドの方から響くテニスのラリー音をバックに待っていた。
ポォンと木霊する音は清々しくて気持ちいい。
悠乃がキーホルダーが少し多めについた端末を、鞄のポケットに押し込んだのを確認して振り返れば、また改めて大きく溜め息を洩らす悠乃がいた。

「彼氏もういいの?」
「違うってば」
「…男友達?」
「それも違うわよ。普通に女の子」

待たせたことへの謝罪を口にしかけた彼女に、どうしてもとまた確認するもののやはりきっぱりと否定される。
ひょっとしたらこう見えて色恋に関しては隠しておきたい派なのかも知れないと思い至った満月は、あまりにしつこいのもどうかといい加減口を噤んだ。
そんな満月の思考を他所に、悠乃は不満そうに頬を膨らませながらじっとこちらを見据えてくる。

「どしたの?」
「…ねぇ満月って、これから時間ある?」
「ん、別にいいけど」

どうせまだ五時を過ぎたところなので、門限には時間があった。
ねだるように首を傾げ、こちらを窺う彼女に向かって軽く頷く。
するとその反応に安心したのか、悠乃はそこでようやく少しだけ澄ました笑みを浮かべた。
そのまま腕を引かれて学校を後にする。
大きなクリーム色の校舎は遠のいて、そのままいつもの通学路をどんどん進んだ。
しかし途中で不意に大きく右折したかと思うと、通学路を逸れてもまだ足を進めていく。

「どこ行くの?」
「学校」

満月の質問に悠乃はそう答えるが、学校ならたった今後にしたばかりである。
結波の裏にも繋がっていなければ、方向が全く違う。
これではまるで結波の“隣”へ行くようだ――そう、隣である。

「あ」

先を行く悠乃がぴたりと足を止めたところで、満月は結波の隣にある学校のことを思い出した。
これも先日悠乃と話したばかりではないか。
既に顔を上げてみれば、そこには結波と違う灰色の校舎が大きく立ちはだかっている。
門から時々出て来る生徒は、黄色いセーターではなく黒いセーラー服、もしくは漆黒の学ランを身に纏っていた。
悠乃に掴まれていた腕をそこで解放され、ふらりと表札の方へと近づく。
嗚呼ここは、あの《黎花高校》なのだ。十分掛かったかかからなかったかぐらいで、本当に簡単に辿り着いてしまった。

「満月もこの前会いたいって言ってくれたから、いい機会だと思って」
「電話って前言ってた子だったんだ」
「えぇ。急には無理って言ってるのに、今日じゃないと嫌って我儘言うのよ」
「でも私まだ心の準備出来てないって」
「そんなもの必要ないわ」

そうしている間にすぐ校舎側から現れた真っ黒の影に、満月は瞬きを抑えて目を凝らした。
隣の悠乃が、その方向へ頭ぐらいまで掲げた手を優雅に振る。
小走りに近づいていた影は脱色どころか頭から足先まで真っ黒で、その日本古来の美しさを連想させる綺麗な黒髪に、満月は思わずスカートの裾を握りしめた。



栄養ドリンク