08

「ち、ちょっと待ってください!」

委員会を決めるホームルームの最中、頭から制服、何から何まで全身を黒で埋め尽くされた少女は、唯一の赤い瞳に焦りを浮かべて慌てて席を立った。
その勢いに合わせて、綺麗に切り揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
一瞬にしてクラスほぼ全員の視線が痛いくらい突き刺さったが、言葉を発してしまった以上もう後には退けなかった。
黒板に少女の名前を記す担任が、唯一落ち着いてこちらを振り返る。
白いチョークで描かれたそこには、もう既に“クラス委員 女子・水澤 椿”との表明が完成している。
しかし少女――椿が異議を唱えたいのはそこではなかった。
その隣に不自然に開いた空白、男子のクラス委員についてだ。

「棄権とかそういうのって、よくないと思います…っ、ちゃんとくじで当たった人がいるじゃないですか…!」

椿が何処か震えながらもはっきりと口にした言葉に、微かに教室がざわつく。
チョークを黒板の溝に置いた担任は、手を払いながらそれでも真摯に――けれどやはり少し面倒臭そうに顔を顰めて言った。

「けどなぁ、水澤。やってくれる生徒がいないからくじを作ったんであって、後からでも立候補が出てきたなら話は少し変わってくる。確かにそれならもっと早く立候補者は言うべきであるし、くじを引いた彼がやりたくないと言って退くのはずるいが、まぁそれでも理には適っているので私はこれでいいと思った。――もう一度確認するが、本当にやってくれるんだよな?伊吹」
「?えぇ、勿論です」
「あとから名乗り出たみたいに、あとからやっぱりやめますなんて言うのはごめんだからな」
「もう言いませんよ、大丈夫ですって。任せてください」

教師の言葉に、椿の斜め前方に座っている男子生徒が、如何にも爽やかそうな声で頷く。
そのまま彼は何もかもわかったような笑みを浮かべたその顔で、椿をちらりと見てからにっこりと笑って見せた。
その表情は声色とは裏腹に、とてつもなくだらしなく椿の視界に映る。
これから先任されるであろう、クラス委員の仕事を彼とこなすのだと考えると、それだけでもう胸が不安でいっぱいになった。
一方でくじを引き当てた男子生徒が、そんなにこにこと笑う得体のしれない彼の近くの席で、無表情にポケットに手を突っ込み、浅く腰掛けていることが尚更腹立たしい。
周囲の誰かが、自分がやりたくないからって文句をつけるなとこちらを横目に小声で言う。
けれど椿が言いたいのはそんなことではなくて、くじを引いた彼がそうやってさも当然のようにふんぞり返っていることだった。
教師の言い分もわからないではない。
高校一年にして初めてのクラス委員。無理に誰かに押し付けるのは出来れば避けたいことだろう。
立候補が出たならそれでいいのだ。
しかしおかしいことはきちんと正さなければならない。
くじを引いた彼は当たりである赤いその印のついた紙を見て――第一声に、抑揚のない声でただ「無理だ」と言った。
担任が職員室に戻ったちょっとの隙に、隣の、眼鏡が似合う気弱そうな少年に何かを話していたのも見た。
きっと最初はその眼鏡の彼にくじを押し付けようとしていたに違いない。
そこが椿はどうしても許せなかった。
どうやら今代わりに立候補した伊吹と呼ばれた少年は彼の友達らしいが、それはそれでこの国には“親しき仲にも礼儀あり”という言葉がある。
伊吹はにこにこ笑っているが、ひょっとするとこれも脅すなりなんなりして彼が生贄にされた結果ななのではないだろうか。

「もしくは、変わってもらったならその人に感謝とか、そういうのあると思います…」

言葉を発する度にまだ一ヶ月も経ったか怪しい、椿のこれからの高校生活が罅割れて崩れていくのがわかる。
教室内の生徒たちが、どんどん煩わしげな視線を突き刺してくる。
非難するようなその眼差しが痛い。
教師も困ったように目を伏せて、こめかみに指を当てながら悩んでいる。
クラス委員を決めるくじや後から出た理候補の存在よりも、最早椿がクラス全体を困らせていることは明白だった。
ざわつく教室内に降りる沈黙。立ち尽くしたままの椿の存在はますます浮いていく。
次第に椿も教師を見つめていることに疲れて、そっと目を逸らした。
どうしても納得いかない。けれどそれが、今どんどん墓穴を掘っている。

「…じゃあ俺が、こいつに誠意を持って頼めばお前は認めてくれるか?」
「――…へ?」

そんな収拾のつかなくなった教室に、はじめに声を発したのはあの少年だ。
彼の机に置かれた、赤い印のついたくじ。
初めてこちらを振り返った彼は、翡翠色の双眸ではっきりと揺らぐことなく椿を見据えてきた。
不意のことに、思わず返す言葉もない。
代わりに返事らしき声を洩らしたのは、何故か彼の斜め後ろに座っていた伊吹だった。
椿の返事も待たず、机を蹴ったかのように激しく椅子を下げた少年は、ゆらりと立ち上がって壁に凭れて座っている伊吹の前に立ちはだかる。
それまでへらへらした笑みを浮かべていた伊吹からも、一瞬だけ笑みが消えた。
あまりの威圧感に、ひょっとしてこのまま椿か伊吹に手をあげるのではないかとも思った。
しかしそんな不安も虚しく、そのまま翡翠色の少年は躊躇いもなく、伊吹へ向かってその樹の幹色の頭を九十度下げて言う。

「無理強いはしない。もしお前が構わないなら、俺を助けて欲しい」
「まっ、陽――」

凛とした声は、俯いている体勢にも関わらずクラス全員に聞こえるほどはっきりとそう言葉を紡いだ。
反応に困った伊吹が、判断を仰ぐように椿に視線を寄越す。
しかし先程までざわついていた生徒もただ茫然と、そしてあまりのことに担任教師も。遂には精一杯異議を唱えていたはずの椿まで、どうしていいかわからずその姿を呆然と見つめるしかなかった。
綺麗に曲げられたその腰と深く下げられた頭は、とても先程まで不正を働き、委員から逃げて偉そうにしていた少年には見えない。

「――ちょ、ってことで先生、お願いします。こいつもこう言ってるんで俺がクラス委員、責任もってやります。ほらもういいから」

一足先に我に返った伊吹の言葉に、彼――夕城 陽はようやくゆっくりと顔を上げた。
今度は担任が椿を一度見て、その意思を問う。
勿論ここまでされたら椿も文句は言えない。黙ったまま着席すると、ぐらりと眩暈がした気さえした。



荒れ狂う予感