05

「教科書忘れちゃったの。見せてくれない?」

初めての会話は、ソレだった。
まだしんと静まり返った、教師の本文を朗読する声だけが響く教室。
そんな中机にピンクのノートだけを広げていた悠乃は、人差し指で隣の席の少年の肩を軽くつついた。
第一声が教科書見せて、だなんて随分情けない始まりだと思う。
できれば悠乃も避けたかった。
しかし最初の現代文の授業で教科書がないのは割と致命的である。
一応きちんと教師には授業前に告げた。最初の授業とだけあってお咎めはなしで済んだことは不幸中の幸いだと思う。

「…、どうぞ」

悠乃の呼び掛けにまず視線で応じてくれた少年は、悠乃を見てゆっくりと眼鏡のブリッジを押し上げると怠そうに返事をしてくれる。
レンズの奥の菫色の瞳は、まるで氷のように鋭く冷たい光を孕んでいた。
初対面ではあるものの、悠乃はこの人物を知っている。
満月と小声で話したあの入学式の最中、台に上がって答辞を読み上げていた人物に違いない。
悠乃より長い淡い茶色の髪、そして何より、あの日見えた横顔からでも十分伝わってきた性別を見紛うほどの美貌を忘れられるわけがなかった。
彼の許可は得て、改めて机を少し寄せさせてもらう。
だが二つの机の距離が教科書を橋渡し出来るほどになったところで、ぴったりとそのままくっつけるより先に、真新しい教科書が朗読ページを開いて悠乃の方へと寄越された。
慌てて受け取ったそれを跨げるかも怪しい机に、支えながら一応架ける。

「あの。確か赤月くんよね?」
「…」
「…違った、かしら?」

折角なのでと掛けた言葉も、ただ少年は鬱陶しそうに少し眉を顰めるだけで答えてはくれない。
やっぱり答辞を読み上げるだけの賢さなので授業中におしゃべりだなんて無駄なことはしたくないのだろうか。
それなら授業の邪魔をしてはいけないと、暫く悠乃も黙って文章を目で追った。
途中でちらりと横を窺ってみたが、ほんの僅かに悠乃と反対側の廊下側へ身体を傾けて教科書さえ目で追わない様子は、とてもじゃないが授業を熱心に聞いている様子ではない。
その美貌は最早、明らかに拒絶するように悠乃と反対側の方へ向けられていた。

「…ねぇ、私何かした?」
「……」

小声で話しかけても、ちらりとこちらを一瞥するとやはり向こうを向いてしまう。
入学式で見た彼は、満月と共に見惚れるほど綺麗だった。
文章を読み上げたその声も、ここにいる教師のものとは比べ物にならない心地よさがあったと思う。
これまでちゃんとした機会がなかっただけで、彼に話したいことは沢山あった。

「…入学式のことなんだけど、」

合わない視線を、かろうじて繋ぎとめるように言葉を漁る。
人間にとって空気が重い沈黙ほど耐え切れないものはなくて、その間をどうしても割いてしまいたいことは本能に近い。

「…、あのさ」

しかし言葉を言い終える前に、不意に顔を上げてこちらを見た彼が先の甘い声を制するように、けれど静かに的確に言葉を被せた。

「君、黙ってられないの?」
「…へ?」
「鬱陶しいから、静かにして欲しい。教科書ならそんなに喋ってくれなくても見せるから。何なら貸そうか?」

こんなこと言わせないでくれ、とでも言いたげな、溜め息交じりの微かな声。
同時に彼はようやく合わせてくれた瞳で、冷やかで射るような菫色の視線をぶつけてくる。
予想外且つガツンと背後から岩で殴られたような初めての感覚に、思考が一瞬停止した。
珍しく悠乃が相手から視線を逸らすと、五月蝿いから静かにしろと言われたのだと、固まった理解力が脳を蝕むように時間差で襲い掛かってくる。
今、悠乃は普通なら人に吐露しないであろう、強い否定を彼から直接受けたのだ。

「…俺の話、聞いてた?」
「ご、ごめんなさい」

重ねられた言葉に、ぼんやりとしたまま兎に角謝罪する。
丁度朗読を終えた教師が黒板に白いチョークを滑らせる。
その音が次第に落ち着きを取り戻していく真っ白な心に、黒いインクのように浸透していく。
眩暈がする感覚に、悠乃はもう彼と目を合わせることもできなかった。



レンズの奥