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遠くで聞こえるクラスメイトの声を拾いながら、椿はぼんやりと一人空を仰いでいた。
賑やかな黄色い声はたった今椿が出てきた更衣室から聞こえてくる。
体育の授業が終わり、いくつかのクラスが一緒になった。
いくら狭くはない更衣室であっても収まる人数に限度というものがあるのだ。
一足先に着替え終えた椿は、沙奈達に断ってから更衣室の外で彼女たちを待つことにした。
体育館の中が窺える、裏側にあるドアのところに座ってずっとフェンス越しの行く人行く人を眺めては、ふと時々天を仰ぐ。
丁度大きな樹のおかげで日陰になっているそこは、体育を終えたばかりの身体に風をくれて涼しい。
つい最近まで春特有の寒さが残っていたと思っていたのに、昨日突然降りだした雨のせいで気温は大きく変わってしまった。
否、正確には温度そのものというより――湿気が増したのだ。梅雨を待つと言わんばかりに。
つい最近までまだ桜が咲いていたはずなのに、いつのまにかそれもなくなっていた。
黎花の制服は男女ともにまだ暑苦しい真っ黒な学ランと膝丈スカートのセーラーのままだ。
そう思うと、今日は結波の生徒はブレザーを着ていない生徒が多かった気がする。
早く夏服へ変わればいいのに――そう思いながら、椿は長い艶めいた黒髪を一度払って後ろへ流す。
普段からあまり好ましく思っていないのだが今回ばかりは「体育後の校内」であることを言い訳に、仕方なく長い袖も先を肘辺りまで捲り上げた。
赤い瞳をそっと臥せて呼吸をすれば、体育で昂ぶっていた感情がどんどんと研ぎ澄まされて落ち着いていく。
先程授業終わりに陽と50メートル走を競ったが、案の定負けてしまったのだ。
思い出すとまだ少し腹が立つが、それも競争を終えた直後程ではない。
今の椿は至って冷静だ。ただ暑いなぁと、ここは涼しいなぁの二つの感情に心地よく揉まれている。それ以外には何もない。

「椿ー、お待たせ。戻ろう」
「!ぁ――うん、」

微かな風にあたりながら、やはりぼうっとしていたその時、ふと鮮明に響いた沙奈の声に、椿ははっと瞳を開く。
慌てて立ち上がってスカートを正して、振り返れば更衣室のドアのところで大きく手を振る沙奈と涼がいた。
他の生徒もチラチラと出て行って、皆教室へ戻るようだ。
大きく手を振る友人に、椿も同じように手を振り返してずっと眺めていたフェンスの向こうに背を向ける。
そのまま歩き出そうと再度熱気を孕む長い髪をふわりと払ったちょうどその時。

「え?、」

椿は不意に響いた、何かを落下させたような背後の音に、反射的に後ろを振り返る。
カシャ、と買い物袋を落としたようなその音の正体は、まさにいつの間にかフェンスの向こうに現れた人物の荷物だった。
黎花の制服に負けないくらい真っ黒なパーカーのファスナーを、この湿った空気の中、首元まできっちりと上げ。
さらにフードもほぼ顔が隠れてしまうほど深く被られていて、表情が読み取れない椿よりも全身を黒一色に包んだ男。
一方で落とした方の袋は椿でも見覚えのあるものであり、あれは確か近くのコンビニのものだったと思う。
いくらなんでもそこまでしては今日は暑いだろうと、流石に異様さを感じた格好に、思わず椿は眉根を寄せた。
そもそも――まだ椿と変わらないような年齢に思える、そんな齢の人物が何故こんな時間に制服も着ず、コンビニの袋を持っているのだろうか。

「んー?どうかした?」
「な、なんでもない!今行く!」

しかし椿の方を捉えていないその双眸は、確かにこちらを見据えていた。
憎悪にしては弱々しく、切望にしてはあまりに歪なその視線。
虚無でもなく確かに意志を宿した羨望――そう、それくらいが相応しいような深海の如くの青い瞳。
何処を見ているのかは定かではない。
体育館――というよりは校舎そのものだろうか。
兎に角、普通なら真っ先に気付きそうな椿の存在には、不思議なことに気づいていないらしい。
ただ先程までの椿のように、ぼうっとこちらを眺めている。
時々、不自然に視線を彷徨わせながら。

「椿ちゃん?何かあった?」
「あ。ご、ごめん。な、なんでもないから…っ!」

そんな彼を眺めていると、今度は沙奈ではなく涼が椿の名前を呼ぶ。
それに慌ててまた手を振って応えれば、そこでようやく少年は椿の存在に気付いたようだった。
今度こそ一瞬目があった気がした刹那、先程まで固まっていた彼は途端に慌てて落とした袋を拾い、さらに深くフードを被り直して逃げるかの如く足早に去っていく。
結局最後もう一度、今度こそ誰もいなくなったフェンスの向こうを振り返ってから椿は小走りに二人の友人の元へ向かった。



ぼやける視界