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篤を部屋に押し込み、何とか一人で一階まで戻って来た守威は、冷蔵庫の扉を開けてあまりの何もなさに絶句した。
普段一人で家にいる際はカップ麺なりなんなりを食べればいい。
それにその時に冷蔵庫に何もなくたって、学校から帰ってくる篤が夕飯の用意も含めて必要な云々は補充してくれる。
しかし今日はそうではないのだ。
いつも補充してくれる篤が今二階のベッドで眠っていて、この大きな箱の中に何かを足してくれる人はいない。勿論勝手に湧いてくるわけでもない。
それくらい守威だって知っている。
そして、薬を飲む際に何一つ腹に入っていない状態がいけないということも、だ。

こんなことなら中学の時、もっときちんと家庭科の調理実習に取り組んでおくべきだった。
友人たちと喋り、面倒な仕事は全て女子に任せ、結局食べる時だけ平然と席についていた。今思うと情けない。
そしてあの頃が、守威にとって最も馬鹿で。しかしそれと同時に最も楽しかった時代でもあった。
と言っても粥ぐらい作れないかと、冷気の溢れる扉を開きっぱなしでスマホを操作する。
さっさと閉めろと、催促する音がピーピーと鳴り始めたので眉を顰めた瞬間にふと背後から声が掛かった。

「――…あぁ。ほら、ごめん。冷蔵庫の中からっぽだ」
「は?お前なんでいんだよ。寝とけよ」

振り返れば、パジャマの上に厚手の上着を羽織った篤がやっぱりへらりと笑っていた。
反射的に零れた口の悪い言葉を篤は気にしていないようだ。
ただケホケホと咳き込んでいて、やっぱりよくはないんだと改めて知らされる。
それでも呑気に「買い物に行かないとなぁ」とぼやく能天気さには、つい小さく舌打ちを洩らしてしまったほどだ。

「…お前の財布ってどこだっけ?」

守威は五月蝿い冷蔵庫をようやく閉めると、ふと兄の少し赤くなった顔を振り返った。
突然財布の在処を尋ねられた病人は、頭が回っているのかいないのか、きょとんとしてこちらを見つめて首を傾げる。
そんなことは流石に思われていないだろうが、守威は別に金をせびるつもりではない。

「学校の鞄?取ってもいいか」
「いいけど…なんで財布なんだ?」
「はぁ、お前ホント呆けてるな。元からだけどよ」

許可をもらったところで兄を押し退けると、守威は改めて真っ白い二階の一室へさっさと足を運んだ。
折角運んでやった氷枕が独り虚しくベッドの上に放り出されている。
その横に立ち、勉強机の椅子のところに置かれた学校指定の制鞄から高価なブランドものでもない、ごく一般的な男子高校生が持ち歩いてそうな財布を抜き取る。
篤が家事を任されているからと言って、何も彼が生活費までもを稼いでるわけではない。
一応そこは親なのか、会社にいることが多い母は一応毎月篤に最低限の生活費を渡してたことを守威は知っていた。別に隠されていたことでもない。
守威が欲しかったのはこれだ。
そして今度は日中にも関わらずカーテンの閉まった自室へ向かうと、真っ黒いパーカーを着込んで無造作に羽織る。
どくん、と嫌な音を心臓がたてた気もした。
それでも、ズボンのポケットに篤の財布を突っ込んで一度深呼吸する。
罅割れた鏡に自分の姿が映り、視線を逸らして一階へ戻った。
キッチンでは篤が水を飲んでいたところだった。
透明なガラスのコップを仰いだ兄に、少し歯切れ悪く声を掛ける。本当なら何も言わず出て行きたいのだが、生憎そうはいかない。
下手に心配されてこんなヨロヨロした兄に徘徊されたら困る。それこそ母がまた血相を変えて怒鳴るだろう。

「…コンビニ行ってくる。腹減ったし」
「こ、コンビニ?えー―守威が?いや。そういうことじゃ…あれ、ちょ、ま、まって」

用件を一方的に告げるなり、返事も待たずそのまま玄関へ行こうとすれば慌てて篤が追いかけてくる。
靴箱にしまわれた長いこと使ってないスニーカーを取り出して履けば、そこで追いついた兄がふと腕を掴んだ。
振り返れば、守威が大嫌いな困惑した顔がそこにある。
いちいちそんな顔をされることに腹が立って、少し乱暴に掴まれた腕を払った。

「どうしようが俺の勝手だろ。それとも母さんに言うか?兄が寝込んでるのに俺はそれをいいことに遊びに行ったって」
「ちが…、だって守威、外って久々だろ?もし何かあったら――」
「“何か”?父さんのときみたいにってことか?」

意地悪い指摘をすれば、篤は簡単にびくりとわかりやすく肩を揺らして絶句した。
母は守威が外を出歩くことを快くは思っていないが、別に監禁されているわけではない。
こんなところにいたくないと思う一方で、守威自身自分にはこの世界がお似合いだと思ってもいる。
しかし、今は別だ。
ここにいたら二人して飢えて死ぬだろう。母は兄の心配を一応するが、だからと言ってこまめに顔を出してくれるわけではない。
食材を買ってきてくれるわけでもない。

「…買い物したらすぐ戻ってくる。お前が作るにしても、食材がねぇと無理だろ」

ならば守威が、やらなければ。

「…携帯持ったか?何かあったら電話してくれ、ぜったいだぞ」
「なんもねぇよ」

ようやく守威の言葉に頷いた篤は、やはり泣きそうな顔をしていた。
外を歩くだけで兄に電話する羽目になって堪るものか――靴を履きながらそう思ったが、面倒なので適当に返事だけをしておく。

そうして守威は梅雨が近い快晴の下、久し振りに太陽を直接拝むこととなった。



羽化の前日