38

「まったく…」

篤の脇から引き抜いた体温計を見て、母は心底鬱陶しそうに眉根を寄せた。
ここまで露骨に長男の方に向けて顔を顰めたのは、ひょっとしたら初めてなのではないかとも思った。
普段は自分と同じくらいの時刻に起き、家事のほとんどをこなしているはずの息子が、夜勤を終えて帰宅するといなかった。
本来ならすべてを終え、もう学校へ向かうため家を出なければいけない時間に、リビングのカーテンがしまったままというのはいくら家にいることが少ない母でも違和感を覚える。
ヒールを脱ぎ捨てスーツのまま二階への階段をどかどかと上がり、部屋を開ければこのザマだ。
否、正確には最初は制服を掴んだ状態でベッドに転がっていた。
寝坊こそ時々あるものの基本的に篤は二度寝をしない。
その手から皺になりかけの制服を引っ手繰り、額が熱いことを確認してから無理矢理ベッドに寝かして現在へ至る。

「今日は学校休みなさい。連絡くらいしといてあげるわ。私はまたすぐ仕事に行くけれど」
「…あ、守威の朝ごはん…」
「どうせ食べないんだからいらないでしょう。いいからアンタは寝るの」

ろくに歩けもしない癖に、ふらふらと身体を起こす息子の額を、母は枕へ押し付ける。
勝手に起き上がって階段から転落し、大怪我を負われては困る。
篤は少なからず、この家にとっては必要不可欠だ。特に彼等の父がいなくなってしまった今では。
篤をベッドに押し込んだことを改めて確認すると、母は篤の部屋を後にして階段奥のドアを少し乱暴に叩く。

「守威。出てきなさい」
「――…んだよ、」
「篤が熱出してるの。アンタの兄でしょう、余計なことしないように見てやって」

部屋から顔を出した守威は、久々に掛けられた母の言葉に露骨に顔を顰めて「なんで俺が、」と小さく呟いた。
おまけに舌打ちをしたところで、今度は母の眉間に皺が寄る。
それを察したのか結局守威の方が折れて、母について下へ降りるなりキッチンのところで氷枕と適当なタオルを受け取った。
最後に「薬は電話の下にある箱の中にあるはずだから」、そう言うと母は自室へ向かい、いくつかの書類を鞄に詰めるとあっさり会社へと戻っていく。
普段家庭のため身を削っている息子が風邪を引いたのに、随分冷たいのだな、と守威は扉の向こうに消えていく母の影を見つめながら思う。
否、篤だからきっとこうして枕だの薬だの世話を焼いてもらえるのだ。
きっと守威が風邪を引いただけでは――篤がどうするかは兎も角、母は篤に看病を頼んだりしないだろう。
玄関に残された守威は、そういえば今日は掴まれなかったなとぼんやり自分の手首を眺めてから、取り敢えず手にしている凍えるような冷気を放つソレをさっさと篤の頭の下に引いてやろうと思った。

しかし篤がこちらを訪ねてくることはしょっちゅうでも、守威はもう何年も兄の部屋の扉を訪ねたことはない。

――あれ、

面倒臭いだとか鬱陶しいなど色々考えつつたった今降りてきたばかりの、今度はやけに長く感じられる階段を上り終えると守威は、篤の部屋の前で思わず首を傾げて立ち止った。
手に持つ氷枕が、ひんやりと守威の手を冷やし、ついでに脳もサァっと冷静にさせる。
昔、篤の部屋を訪ねる時、自分がどう尋ねていたのかがわからないのだ。
篤は守威を訪ねる際、必ず声を掛けてノックをする。
しかし守威はどうだっただろう?
無邪気に兄を呼び、そんな他人行儀なことはしていなかったんだろうか。
それとも一応マナーとして、きちんとそういうことはこなしていたのか。
このドアを、守威は一体なんと言って開けばいいのか。
ドアノブに伸ばしかけた手を、一度引っ込めてまたドアノブを握る。しかしそれ以上、なかなか回す勇気がない。
折角なら母はわざわざ下に呼びつけるのではなく、あのまま無理矢理にでも自分をこの部屋の中に送り込んでくれればよかったのにとさえ思った。
ふと何気なしに浮かんだ疑問が、次第に頭の中を占めて思わず眉根を寄せる。
悩めば悩むほど、どうすればいいのかがわからなくなる。まるで泥沼に沈んでいくようだ。
誰かが部屋の向こうにいて、自分がそこを訪問する――そんなドアを、守威はもうずっと長い間開けていない。

「――…マジかよ」

大の高校生にあたる齢の者が、部屋のドア一つ開けられない。重傷だと自分でも流石に思った。
氷枕を手にしている枕に爪を立てれば、溶けかけてきた氷がからんと微かに音を立てる。
このまま兄の容態なんて、放っておいてもいいのではないか。勝手に動かないように見張れと母に言われたのだから、それならこうして部屋のドアを監視しておけば条件は満たすのではないか。
勿論そんな屁理屈が通用するわけがない。
篤の体調不良が長引くことは、正直守威にとっても困る。自分が口にするかは別としてだが食事の用意を始め、洗濯や掃除なども守威は満足にこなせない。

「…るい?」

だがそうして守威がどんどん眉間の皺を濃くしている間に、守威の呟いた言葉を拾ったのか、それとも微かなドアの向こうの物音もしくは気配を察したのか。
不意に中から、弱々しい声が守威を呼ぶ。大抵守威が篤をあしらって、それに困惑しつつも悲しそうに笑う兄の声によく似ていた。
そして守威は、この声が大嫌いなのだ。

「――…氷枕、母さんに頼まれたから持ってきたんだ。薬もあとで探してくる」

そんな大嫌いな声に、守威はドアノブを握る手の力を強めて話す。
しかし肝心の「入るぞ」や「開けるからな」とまでは言えなかった。
このドアノブを、回せばいい。頭で考えることは簡単だが、身体は案外思うようには動いてくれない。

「あぁ…ごめん、ありがと。すぐ起きるから、いいのに」

結局守威が散々葛藤したドアは、その言葉のあとやけにたどたどしく言葉を紡ぐその部屋の主である兄の手によって開けられたのだった。
珍しく未だパジャマ姿の兄が、いつにもましてへらへらと覇気がなく笑いながら守威の手から氷枕を受け取って、見事に床に落下させる。
足の甲に直撃しなかったことが幸いだと思った。それと同時に――これは確かに見張らないとやばいと流石の守威も察する。
母が何故普段はろくに口も効こうともしないはずの守威を呼びつけたのかわかったような気がした。

「…寝とけよ」
「いやでも、やることあるし」
「お前が今やることはそれ治すことだろ。第一、それも持てないのに今のお前に何ができんだよ」
「……けど、」
「お前がボケて散らかして、片付けんのは俺なんだ。怒られる」

守威は落ちた氷枕を拾うと、眉を下げて大袈裟に困惑する篤を再び部屋に押し込んだ。
そのまま自分も部屋に入ろうとして、やはりその直前で一歩また退く。
先程と違い、入り口は開いていて中も見えている。
守威の部屋と正反対の清潔な白を基調とする部屋で、カーテンが締まっていててもその部屋の空気が重くなることは決してない。
勉強机の上には適当な教科書やノート、それから何故か学校用の鞄がのっている。
制服はその勉強机の椅子のところに掛けてあった。ハンガーはまだベッドのの上だ。
この部屋が守威を断罪することは決してない。わかっているのに、誰かがそれを許さない気がしてこわい。
守威の罪を許さないものは、きっとこの世に沢山あるだろう。それがこわくて、ずっとこうして逃げている。
篤は、兄は守威を断罪したりしない。これももう嫌というほどわかっている。

変に熱い兄の肩に手を添えながら、試しとして守威はその背に聞こえるか聞こえないかもわからない、小さな声を絞りだしてみた。

「……部屋、久しぶりに見た」

いつにも増し体調不良で更に呆けている兄だが、やはり弟のそういう声は聞き逃さないらしい。
わざわざ振り返ってから「そうだっけ?」と首を傾げた篤は先にベッドに腰を下ろしてから、いつまでも開いたドアの向こうで突っ立っている守威に軽く手招きした。
その指先に誘われて、守威はようやく躊躇いがちに一歩踏み出して淵を超える。

「やっぱきのう、無理に走って帰らなければよかったなぁ」
「…わかったならもうやんなよ」

普段使っているのであろう白い羽毛の枕を手にしていた氷枕に差し替えると、ベッドのサイドテーブルに乗っていた体温計を手渡して守威はやっと大きく息を洩らした。



つぎはぎだらけ