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昔から、臆病で泣き虫で、決して強くはなかった。

幼稚園に入学した頃だって、親と離れるのが不安で最後まで引っ付いて離れなかったと聞かされたことがある。
小学生の頃もそれはあまり変わらなく、すぐに体調を崩してしまうことも兼ねてまた学校へ行きたくないと愚図っていた。
流石に中学年ともなると学校へ行くことへ割り切る気持ちは出来たのだが、高校になっても未だ、いくらか落ち着いてはきたものの慣れない環境への不快感は完全に拭えない。
しかしだからといってそんなのを言い訳に欠席していい時期はもう過ぎて、家族に無駄な心配や迷惑を掛けることが嫌で、多少の痛みなら無視してしまおうといつからか自分の中で決め付けた。

それでも、最近はそれも持たなくて。

「――っ、」

優しい母は、すぐに気に掛けてくれる。
昔はその手に縋りついて泣きじゃくっていたが、流石にもうそんなことはしなくなった。
仕事に追われる父とは、あまり顔を合わせることがない。
賢く強く、眩しいものは嫌いだ。情けなく弱々しい、自分が際立ってしまうように思えて怖い。
中学に入ればその感情は余計大きくなって、その歪んだ感情故か、寝込んでいた時期と比較すると随分と頻度の減ってきた体調不良も上手く誤魔化せるようになった。
辛くても、苦しくても、誰にも迷惑が掛からないのなら何もなかったことにすればいい。
それを隠したからって死ぬわけではない。
母も決して身体が強いわけではないのだから、そんな両親の手を自分のことで煩わせるわけにはいかない。
しかしいくら彼がこんなにも考えても、なかなか現実は上手くいかなくて。
勉強は足りなければそのぶん時間で補えばいい。ひたすら参考書を片手に向き合えば、大抵のことはなんとかなる。
けれどこの身体は――彼の意思に反して、すぐにこうして音をあげる。

――頭が、くらくらする。

薬品の薫りが充満する保健室の、真っ白な壁とベッド。隣とは白いカーテンで区切られたそこに、彼は腰掛けて頭を押さえていた。
カーテンの向こうの壁に掛かった時計を見れば、四限目が終わるまでまだ二十分ぐらいある。
授業開始前から何となく気分が悪くて、座っているうちにどんどん胸の奥から、ムカムカとした何かが競り上がるように沸き立っていた。
口を開けばその沸きあがる何かが溢れそうで、それでも唇を閉ざしていればずっとそれは胸の奥底で膨れ上がるだけで終わる。
次第にただ椅子に座っているだけで倒れそうな錯覚さえ覚えたが、前回科学の時間を欠席したのでできるだけ授業を聞いていたかったのだ。
まぁそんな状態で授業に集中できるわけもなく、叶わなかったので今ここにいるわけなのだが。

――吐、けない。

首を絞めるようなネクタイを緩めながら、震える息をゆっくりと零す。
そろそろ顔見知りになれそうな保険医には、寝不足と朝食を摂っていないことが原因ではないかと注意された。
眼鏡をも外してブレザーを脱ぎ、ゆっくりと横になって、ぼんやりと外から聞こえる他学年の体育の音に耳を傾ける。
一定間隔で響く笛を聴きながら、不意に先程の授業を思い出して「情けないな」と微睡みながら思った。

彼にとっては、たった一瞬目が合っただけだった。
それなのに、彼女は自分の普段と違う顔色が何故見抜けたのだろう。
父にも母にも気付かれないその振る舞いが、何度か会話しただけの隣の席の少女に見破れるものなのか。
それとも自分が、ただ知らぬうちに気分悪さに負けて呆けていたのだろうか。
あまりにしつこく、しかもせっかく隠したものを暴くように近寄ってくるものだから堪らず席を立ってしまったことを、少なからず申し訳なく思う。
それでもあのままあそこにいたら、それこそ彼女にどうにかされてしまいそうだった。
苦労し、長い月日を掛けて埋めた意識が、たかがクラスメイトの少女の手によって簡単に曝け出されてく気がした。
あのまま彼女の言葉を無視して、頑なに唇を閉じておけばまだあの場に座っておくことぐらいできたはずだ。
なのにそれができなかった。彼には、それだけのものがなかった。

「…、なんでわかるの」

小さくそう呟いても、勿論答えてくれる人はいない。
けれど、彼女の隣で今の言葉を同じように口にすれば、どんなに小さい音でもひょっとしたら拾ってきちんと答えてくれるのではないかとも頭の片隅で思ってしまう。

「……馬鹿みたい」

自分も、彼女も。
これは、甘えだ。彼自身にもわかるほど露骨で、他人に縋る甘え。
きっと疲れているから、そのせいで頭が弱っているのだ。
弱っているところに手を差し伸べられると、人は誰だってそれに乗ってしまう。
そう考えて、余計な思考を振り払うように彼は瞳をそっと閉じると、そのままグラウンドから響く生徒の声にようやく意識を手放した。



愛されたいの?