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あと一時間耐えれば、ようやく午前の授業が終わる。
そんな科学の数式が飛び交う四限目、ふと今まで問題の解説をしていた教師がチョークを手放し、パン、と一回手を叩いてぼんやりとしている生徒たちを覚醒させる。
悠乃もその例外ではなく、寝てこそいないものの、そこでようやくいじっていたシャーペンを置いた。

「はい、じゃあ隣の子と次の問題を考えてみて。気付いたことや感じたこと。五分後に誰か当てるから」

白衣を纏った若い女教師は、手元の腕時計を見ながらそう柔和な声を響かせる。
それまで静かだった教室に誰かが一言、また一言と次第にそれぞれで会話が行われ、いつのまにか休み時間ほどではないものの賑やかになった。
前に座る男子生徒が、隣の女子生徒と真面目にここはこうじゃないかと議論し始める。
一方で後ろの席の横並びの男子達は、全く授業と関係ない話をして二人で声を潜めて笑っていた。
悠乃も試しにちらりと横を窺ってみるが、隣の彼は額に手を当て目を臥せているだけだ。
もう入学して結構経つのに、未だ悠乃達のクラスは席替えが行われていない。
隣のクラスの友人は先々週行い、窓際の後ろの席になったと喜んでいた。
自分たちの担任は一体何をしているのだろうと、よく授業中に欠伸をしている教師を思い浮かべる。
生徒の怠惰は許さないが、本人は意外なことにガボガボだ。彼女がいるとか婚約してるとか、そんな噂も上級生の中であると言う。
兎に角悠乃は、出来ることならそろそろ席替えをして欲しかった。
廊下側の席にももう飽きたし、何より隣の彼とはあの入学してすぐの教科書の一件以来、なかなか気まずい状態が続いている。
あまりの空気に耐え切れず、時々悠乃から会話を持ちかけてはみるものの、避けられるかたった一言ですべてを終えられてしまうのだ。

「…赤月くん」

試しにいつものように、少し手元を覗きながらひっそりと声を掛けてみるが、勿論反応はない。
さらに今日はあろうことか授業中に居眠りまでしていた。

「赤月くん、」

続けて二回目。今度は手元ではなく、その長い睫毛が影を落とす臥せられた瞳を見つめてみた。
だがやはり、彼は返事は愚か目を開けてくれることもない。
しかもタイミング悪く、教師がこちらに視線を向けてくる。
悠乃は仕方なく彼には触れないよう――机を人差し指でノックしてもう一度呼び掛けた。
先程よりさらに声を潜めて、せめて彼が形だけでも向かい合ってくれることを願う。

「ねぇ、先生見てるから。顔だけでいいからあげて、怒られちゃう」
「…」
「赤月くん」
「…、るさい、――聞こえてる」

溜め息を混ぜて、ようやく彼が返事をしてくれたのは悠乃がしつこく四、五回呼び掛けた辺りだった。
またひどく棘の混じった言葉が飛んできた気がしたが、聞こえないふりをしてノートを寄せて話し合っているふりをする。
心底嫌そうに渋々とあげられた美貌に合わせて、長い髪がさらりと肩から零れた。
重ねて一息、またその薄い唇から疲れたような吐息が洩れる。
悠乃はさっき置いたばかりのシャーペンを握り直すと、他の生徒がやっているように問題の箇所に目を通してみた。
二人で考察と言われたので難問なのかと身構えたが、おそらくそこまで捻ったものではない。

「考察どうする?」
「……形だけじゃなかったの」
「一応確認しとこうかなって思って」
「君が適当に考えて。なんでもいい」
「ひどい言い方ね」
「悪いけど。……今話したくないんだ」

今なんかじゃなくていつも私と話してくれない癖に――彼の我儘に少し眉根を寄せ、文句を言おうとして、だがやめようと悠乃は仕方なく当てられた時のための考えをノートの端にまとめておく。
彼はその間もやはり気付けば目を臥せていて、流石の悠乃も少し腹が立つのを覚えた。
まとめが三行ほどいったところでもういいだろうと、またシャーペンを手放す。
教師の方をちらりと窺ってももうこちらを見てはいない。
最低限はこなしたのだから、もういいだろうと向かい合っていた姿勢を正そうと身体を傾ける。
最後に「じゃあホントに私が勝手に言っちゃうから」と少し皮肉を込めて告げたところで、不意にまたゆっくりと瞳を開いた彼と目があった。
彼は怠そうにまた息を吐いて、一度こちらを見てからすっと視線を逸らす。
その一瞬見えた瞳の揺れ具合に、悠乃はふと首を傾げた。

「…あれ、?」

――おかしい。

「赤月くん?」
「…」
「ねぇ、こっち見て」
「…あのさ、話したくないって言っ――」

悠乃の呼び掛けに、彼の声が少し低く、露骨な呆れを孕んだものへと変わる。
それでも悠乃は構わずその菫色の瞳を見つめようと珍しく眉間に皺を作って顔を寄せた。
視線をわざと逸らされて、しかしそれでもその菫色の瞳はやはり薄い水の膜を張ったようにゆらゆら揺れていることがわかる。
こうしてまじまじと見つめると、心なしか顔色もよくない気がする。
もしかしたら違うかもしれないが、また気に障ってしまうかもしれないのを覚悟したうえで、悠乃は恐る恐る切り出してみた。

「ひょっとしてまた体調よくないの?」
「っ、ちが、」

すると刹那、その細い肩がびくりと小さく確かに震えた――気がした。
同時にたった今逃げたはずの視線が、少し驚愕を浮かべて戻ってくる。
しかし沈黙を挟んでから硝子越しの双眸が細められるなり、その瞳から透明な滴が零れると錯覚するかのように視線がまたふと落ちた。
親に隠していたことがバレてぎくりとする子どものような、それぐらい露骨な反応だ。
続けていつもより弱く細いやっとの否定が、薄い唇から紡がれる。
もし、もしも彼が本当に体調がよくないのだとしたら。
先程まで喋りたくないと突っ張っているのだという印象から一変、その声はまるで喋らせないでほしいと懇願しているかのようにさえ思えた。

「……、…そんなこと…――なんで君が…」

彼が細い声で、それでもやはり明らかな拒絶を含む言葉を途中まで口にして黙り込む。
それに倣って悠乃も何故か、それ以上はもう何も言えなかった。
朝は晴れていた空が、いつのまにかどんどん曇って教室に影を落とす。

結局、教師が考察終了の挨拶を告げると同時、彼は悠乃と会話は勿論、視線を合わせることもなく、逃げるように不調を訴えて教室を出て行った。



優しく甘い氷点