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「――なぁ、」
「…」
「おい」

自分は駄目な兄だ。昔のことを思い出しながら、篤は改めてそう思う。
何もわかっていない、馬鹿で愚かな頼りない兄。
齢ばかり取って体ばかり大きくなって、こうして一丁前に制服なんて着て、それでも何もあの日から変わっていないし、出来やしない。
こうして毎朝早く起きて、それこそ馬鹿の一つ覚えみたいにこうしてフライパンを手にして、一体誰の為に篤はこんなに一生懸命になっているのか。
弟は、こんなことはしなくていいと何度も言う。余計なお世話だと耳に胼胝ができるくらい聞かされた。
母親も最近仕事が立て込んでいるらしく、まだ暗い早朝に家を出て行く。勿論朝食は摂らない。
篤の作るご飯を、食べてくれる人はいない。

「――おいってば」
「っ、!?」

フライ返しを意味なく玩んでいた手を、ガッと突然掴まれて篤はびくりと我に返った。

「る、守威?どうした?」
「どうしたって…。焦げてんだろ」
「え?あ――」

ひょっとしたら今考えていたことが、全部声に出ていたのではないか――そんな気になって思わず体を強張らせたが、どうやら守威が言いたいことはそんなことではないらしい。
呆れたように顔を顰めた弟が指したフライパンは、数十分前篤が綺麗に目玉型に割ったはずの卵を見事に黒く、縁側から次第に墨へと変えていた。もうとても食べられたものではない。
守威に小さく溜め息を吐かれ、手首を解放されたところで篤はIHコンロの火を慌てて止める。
続けてトースターの方から丁度軽やかな音が聞こえてきて、用意していたジャムを片手に振り返った。扉を開ければ、こちらはきちんとこんがりとしたバターの薫りがしてくる。
幸い、トーストの方はミスをしなかったようだ。
守威はいつものように朝にシャワーを浴びて、半乾きの頭のまま冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出していた。
母がいない朝に、守威がキッチンに顔を出すことは多い。といっても今日のように篤と言葉を交わすことは極稀なのだが。
改めてリビングの方の壁に掛かった時計を確認すると、もう自分ですら朝食は摂れそうにないので、仕方なく取り出したトーストの一枚を行儀悪く咥え、先に作ったサラダにラップを掛けておく。
守威用に焼いたパンはサンドイッチにしようと思っていたが、それだと篤は一限に遅刻してしまう。
仕方なく行き場のなくした食パンを、どうしようもなくて背を向ける弟へ差し出した。

「これ食べるか?ごめんちょと呆けてて…焼いただけだけど」

しかし互いに手を伸ばせば届きそうな距離であっても、守威は後ろを振り返ってはくれない。
予想できた反応に、篤はまたいつもの如く困ったようにわざと笑って渋々サラダの乗った皿の横にトーストを乗せた。

「行ってきます」

今も返事がなかったのだ、続けて発してみた言葉にも勿論守威は言葉を返さなかった。
ただ代わりに、ことんと手にしていたグラスがテーブルの上に置かれる。そのまま空いた手で今度はガシガシと頭を拭いて、篤がリビングを出てもそれだけだった。
パンを口に、篤は玄関の鉛のように重い扉を開き、ガチャンときっちり鍵を掛ける。
今日も空は青くって、もう二年生になってだいぶ経ったがまだまだ梅雨の気配は感じられなかった。
軽く息を吐いて、いつもしているように学校の方へ意識を切り替える。


一方で、篤が出た家の中にはまた奇妙な静寂が広がっていた。

「…へらへらすんなよ」

思わず小さく呟いた言葉は、時計の針の音に呑まれて消えていく。
残されたトーストを守威は敢えて振り返らずに、小さく舌打ちだけをしてそのまま二階へと上がった。



迷い込んだ鳥