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はじまりは、ただの親子喧嘩だったはずだ。

両親の仲がよかったのか、そこまでははっきりと憶えていない。
母は感情の起伏が激しく、よく怒る人だった。
些細なことでもすぐにいい加減にしなさい、と声を荒らげて息子たちに怒鳴っていた。
一方で父の方は、そんな母がいたこともあってかあまり怒った姿を見たところがない。
息子たちへ向けられた母の怒りを、治めるのが父の仕事でもあった。
「落ち着きなよ、そんなに怒ることでもないだろう」――それが、昔はそれなりに喧嘩早かったと聞く父の口癖で。
そんな父と割と聞き分けのいい兄、そして親の言うことをなかなか聞かない少しやんちゃな弟。
母は、弟のことが好きではなかった。
けれどそれまでは父が間に入ってくれて、適当に母を宥めてくれて、それで何もかもが上手くいっていた。
そのはずだったのだ。しかし、その終わりは本当に突然、呆気なく訪れた。

根本的な原因は、果たしてなんだったろう。
物を壊したんだったか、口答えの際に暴言を吐いたのだったか。
今となって頭を捻っても、生憎兄は思い出せない。
その頃の兄にとっては何もかもが無で、ただ息をするように母に言われたことをこなせばいいだけであり、弟の存在なんてただの煩わしいものでしかなかったのだから。
昔から余計なことばかりする、それなのに誰とでもすぐ仲良くなれるような弟とはどうも性格が合わなかった。
いつもからかわれて、兄だけが変にムキになって怒っていた。それこそ母親にそっくりだ、と今になっては思う。
子どもの単純な、些細な感情として、兄は当時弟が大嫌いだった。


母と弟が、いつにない大喧嘩をしたあの日。
空はもう夜色に染まりかけていたのに、父はまだ帰宅していなかった。
兄はリビングでテレビをつけながら、また喧嘩かと呆れるように宿題のドリルを広げていたと思う。
それでも離せだの触るなだの、微かな弟のまだ高い声が家に響いていたことには気づいていた。

――ここまではいつもの、本当に日常に近いものだったのだ。

そして、大きな平手打ちの音と、その抵抗の声が泣き声に変わったことも兄はきちんと耳にしていた。
弟は、滅多に泣かない子だ。兄がたまに突き飛ばしても、瞳に涙は浮かべるものの声を出したりしなかった。
だからこれには兄も、流石にぼんやりと眺めていたテレビから我に返り、握っていた鉛筆を置いて立ち上がる。

真っ暗な廊下、向かい側の戸の開いた我が家で唯一の和室。
普段洗濯物などが取り込まれ、畳まれる為にしか使用されないそこで、珍しくその日弟は、声を――それでも精一杯殺そうとしようとしながら泣いていた。
口許を押さえて、怯えるように蹲って泣いていた。

いつもと違う光景だった。

何度も言うが、まだその時父は帰宅していなくて。
小さく下を向いて丸まっている弟を見下ろす母親が、今こちらを振り返れば自分まで怒られる気さえした。
大嫌いな、煩わしいと思っていた弟が、否。それ以上にいつも泣かない弟が泣いている。
母は続けて手こそ挙げないものの、まだ怒りは収まっていないようで、泣くんじゃないと時々更に弟を叱咤する。

――このままでは、いけないのではないだろうか?

しかし兄と弟の年は、一つしか変わらない。
危ないと、どうにかしないととわかっていても、一度恐怖を覚えてしまうと足が竦んで動けない。
弟と違って、兄は滅多に怒られたことがなかった。
ひょっとすると、また弟が何かやったのではないだろうか?
否、けれどもこれは罰だとしてもやりすぎではないか?

ぐるぐる回る思考に立ち竦んでいると、畳から少しだけ顔を動かした弟が、赤く腫れた瞳で一瞬こちらを振り返った気がした。
海のように青い瞳が、何か言いたそうにこちらを捉えて。
その視線に震えた兄は、遂にその場から引き返してリビングへと逃げ帰った。
まだ母は怒鳴っていて、弟はぐずぐずと鼻を啜って泣いている。

玄関の扉が開いたのは、丁度兄がリビングへ逃げ、耳を塞いでしまいたい衝動に駆られたその時だった。

『守威…?』

帰宅するなり、玄関まで届くその声に男は何を思っただろう。
ただいまの言葉もなくその異変をすぐさま察した父は、そのまま鞄を放り出すと靴を揃えるのも忘れてリビングの前を通り過ぎ、音のする方へと向かっていった。
父が片耳につけている、普段は髪に隠されている大きなピアスがシャラリと音を立てる。
兄もそんな父を見送ってから恐る恐るその方角を覗いたが、リビングからでは和室の様子はきちんと窺えなかった。

家中に響き渡るようなパシン、と乾いた音が響いたのはそれからすぐのことだった。
父のあんなに低い声は、あの時初めて聞いた気がする。
母が弟に手を挙げたわけではないらしい。
先程までずっと怒鳴っていた母は、その音を機にピタリと静かになった。

『ごめんな。父さんが、もっと早く帰って来てやれれば』

暫くすると父が弟を抱えて、二階へ上がっていった。
その際目にした弟の濡れた瞳と、叩かれたのであろう頬の赤さは今でもずっと忘れられるわけがない。

兄はそこで初めて呆けていた自分を恥じ、あまりにも弱い自分に絶望した。
もしあの時――弟と目があったと感じたあの瞬間、彼の前に立ちはだかって守ってやることができたなら、ひょっとしたらだが、これから先起こる更なる悲劇を防げたかも知れない。
その日以降弟は少しだけ母と兄を避けるようになったが、それでもまだ健気に笑えていた。
父がいれば、何もかもが上手くいっていた。

そう、父がいれば。

逆に言えば、父がいないと何一つ上手くいかない家庭だったのだ。



蝶が堕ちた日