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“close”と札の掛かってるドアを開けば、からん、と客を知らせるベルが鳴る。
扉を開けた瞬間、ふわりと薫るコーヒーの匂い。この香りが陽は好きだ。
営業はしていないので普段響かせているあるクラシックの音楽は止まっている。
人のいない丸いテーブルの横を何度も通り、カウンター付近の床に荷物をおろせば、裏から陽より一回り小さな人影が顔を覗かせた。

「なんだ、兄貴か」
「帰った。何してるんだ」
「あーえっと、コーヒー淹れる練習」

普段客を迎えるカウンターのテーブルに、沢山の器具を並べた少年は言う。
少し橙色を帯びた、陽と同じ樹の幹のように暖かな髪色に鮮やかな緑色の瞳。
背丈こそ平均中学生より小さいが、紛れもない陽の実の弟だ。
陽と違ってこういうことに興味がない彼は、滅多に茶は愚かコーヒーを淹れようとすることはないのだが、本当にたまに、こうして当然店の用具を漁りだす。

「なんか食う?」
「いや、食ってきたからいい」
「兄貴が食ってくるなんて珍しいな。いつもならテスト返しの日とか、速攻で帰って豆擦ってるだろ」
「…そういう気分じゃなかった。あと、たまたま誘ってきた奴がいたから」
「ふぅん」

コーヒーメーカーに不慣れな手つきでお湯を注ぎながら、弟がちらりと陽を見る。
その視線を受け止めながら、陽も敢えて何も言わなかった。
作業する様子がよく見えるカウンター席に腰掛けようかと一瞬考えたが、そのまま座らずに、制服のまま弟の横へ回る。
見れば弟も制服だった。エプロンぐらいしているかと思ったのだが、そうでもないらしい。
しかも弟がカウンターの向こうに立っていることに気がいって気づかなかったが、よくよく考えるとコーヒーメーカーなんて普段陽は使わない。
父が忙しい朝にどうしても、といった時に時々登場するくらいである。

「最近使ってなかったのに、コーヒーメ―カーなんてよく見つけたな。サーバーなら店の方にもキッチンにもあっただろ」
「だってあれ、上手く使えねぇもん」
「そりゃお前が使わないからだろ」
「兄貴が無駄に淹れすぎなんだよ。わかんねぇなぁ」

陽が奥からサーバーを取って来てコーヒーメーカーの横に置くと、弟が嫌そうに眉根を寄せた。
陽の家は、表がこの通り喫茶店となっていて、奥で小さな住居としての家と繋がっている。
生まれたときからこの家で、ずっと父が淹れるコーヒーの薫りに包まれて育ってきた。
小さい頃から目にしてきたその黒く大人の味のする、それでも何か堪らない芳ばしい薫りを放つ液体が、美しく注がれる様にそれだけ焦がれたことか。
陽は中学の時には、既にコーヒーを口にしていた。弟――陰も初めて飲んだのはそれくらいだったはずだ。
同じように育って、同じ時期にそれに触れた。
けれどその苦さと背丈が未だ小さいことを気にする弟は、どうやらその飲み物に陽と同じ感情は抱かなかったらしい。
その証拠に滅多に店を手伝うこともなければ、よく反発するように炭酸飲料やジュースを飲み漁っている。

「陰は昼飯食ったのか」
「食べてない。だからなんかないかなってついでにコレ弄ってた」
「コーヒーはいいけど料理ぐらい出来るようになっとけよ」
「それもだよ。兄貴食べるの好きだし作るのも好きだろ。女みたいでわかんねぇー」

陽の言葉に陰が肩を竦めると、いつのまにかスイッチが押されていたコーヒーメーカーが抽出を終え、ピタリと静かになる。
すると丁度そこで、壁に掛かった時計がゴーンと六時を知らせる低い音を奏でた。
六時まで昼食を摂らずにいるなんて陽には理解できないが、この時刻から何か作ってやろうにも夕飯の時刻を考えると微妙な時間だ。
満月がよく話すので食べ終わったあとも数時間、買い出しも兼ねてそれに付き合っていたがもう少し早く切り上げるべきだったのかもしれない。
仕方なく買い物袋の一つから、明日の朝食にと思って買ってきたパンの一つを陰に差し出した。

「今から夕飯の支度する。腹減ってんならこれでも食っとけ」
「はぁ?兄貴じゃないんだからこんなパン食ってからすぐ夕飯なんか食えるかよ」
「…じゃあ取り敢えずコーヒーでも淹れとけ。それは片付けてサーバーで。あと客側のカウンターにはあんまり並べんな」
「あー、はいはい」

陽が改めて先程下ろした荷物を手にすると、陰は不満たっぷりに顔を歪めならがら渋々兄の言葉に頷いた。
勿論夕飯の支度は店側の調理場ではしないし、冷蔵庫も別だ。
肩に鞄を引っ掻けながら両手にスーパーの袋を持ち、若干壁にぶつかりつつ、奥に消えて行こうとすれば、一応一杯ぶんのコーヒーを作り、コーヒーメーカーの後片付けをはじめた陰が不意に言う。

「兄貴さぁ、親父があぁ言ってるからそんなに頑張ってるんだと思うけど」

その言葉に、陽は足を止めただけで返事もしなかった。
けれど陰は水を出しながらシンクの方を見つめているのに、そんな兄の様子をさもわかっているかのように続ける。

「――そこまでするほど、喫茶店っていいもんなの?」



夢にカーテン