27

郵便受けを確認した篤は、玄関の扉に鍵を突き刺すと回す前に小さく一息吐き、一思いにがちゃりとドアを開いた。

「――ただいま、」

静まり返った室内に響く声に、返ってくる暖かい言葉は勿論ない。
靴を脱いで鞄を抱え、ちらりとリビングを覗くと、何故か朝開けておいたはずの薄い空色のカーテンが、まだ明るい光を遮断していた。
ぎしりとフローリングを軋ませて窓に近寄ると、その僅かな音に反応して、ソファのところから微かなうめき声が聞こえてくる。
一応まだ外は明るいので、出来るだけ音を立てないようにカーテンを開くと、今度はそのソファを忍び足で覗き込んだ。
そこには黒猫のように丸まって、クッションに深く顔を埋めている細い少年の姿があった。
クッションが邪魔をしているせいでその表情は窺えないが、開いた襟元からは包帯がちらりと窺える。
決して寒い季節ではないが、このままで風邪をひいてしまってはいけないと近くのブランケットをそっと掛けてやると、そこでまた少年は小さく身を捩らせた。
すると遂に、まだ眠そうな青い瞳がゆっくりと開いてぼんやりと篤を見上げる。

「守威、ただいま」
「…あぁ。なんだ、篤か」

人影はわかっているようだが微かに目を細めた彼の為に、篤は精一杯優しい声色で、少年に言葉を掛けた。
篤の声に一度ぴくりと守威は反応したが、すぐに頷くとまた潜るように篤が掛けたブランケットとクッションに表情を埋めてく。
そのソファの横に鞄を置いてキッチンへ向かうと、シンクのところにはきちんと洗われてこそいないものの、空になった食器が残っていた。
篤が毎朝用意していく朝昼兼用のような食事を幸いなことに今日“は”弟は平らげてくれたようだ。
色々覚悟して、彼のドアのギリギリ前に置いてから学校へ向かっているのだが、これなら作って置いておく甲斐もあるというものである。
酷いときはおそらく手も付けずに放置されるか、下手すればゴミ箱に捨てられていたことだってあるくらいだ。
ソファでまた身動きしなくなった守威に、折角なのでと篤はまた努めて優しく、彼の地雷を踏まないよう細心の注意を払って言葉を紡ぐ。
冷蔵庫の中を見るとほとんど何もなかったが、今日の夕食も兼ねて二人ぶんなら何とか用意できそうだ。
なんなら自転車を飛ばして今から近くのスーパーに買いに行ってもいい。

「お昼食べたか?」
「…」
「おれまだだから今から作るけど、まだなら一緒に食べないか」
「…」
「何食べたい?」
「…」
「なぁ、守威」

大きな独り言のように、それでも笑いながらソファに目をやって無視する弟へひたすら話し掛ける。
改めてブランケットに潜り直した守威だったが、暫く間を置いてまた話し掛けて、を繰り返すと暫くしてから小さな舌打ちと共にむくりと身体を起こした。
顔に掛かった髪を適度に払いながら、ガシガシと頭を掻いてぎろりと篤の方を睨みつける。
それでもめげずに、また篤は冷蔵庫を閉めて守威に近づき、言葉を紡いだ。
はっきり言うと、昼食を摂っても摂ってなくても、取り敢えず守威はもっと食べた方がいいと篤は思う。
昔は人並みに食べる子だったのだが、父が死んで以来めっきり食が細くなり、今では身長は篤と比較してもそれほど低くはないはずなのに小柄に感じてしまうほどだった。

「…腹減ってない」

結局そう一言だけ口にした守威は、またソファに横になるなり深くブランケットを被って改めて無視を決め込んだ。
静まり返ったリビングには、チクタクと時計の秒針の音だけが響き始める。
リクエストがないのに今更何かを買い出しに行くことは何となく気が憚られる。

「――…さっきの具材だと作れて炒飯、かなぁ」

完成したらもう一度起こしてみよう、と篤は取り敢えずキッチンへと戻ってフライパンを取り出してみる。
作るべきは無難で、守威が食べてくれそうな――それでいて手軽な料理である。
凝れば凝るほど、守威が篤の料理を毛嫌いすることは身を持って知った。
さらに除けるようにして残されたものから学習した、弟の好き嫌いを脳内で必死に意識しながら取り敢えずシンクにある食器から片付けていくことにする。
学校にいるとあれだけ感じた日光の眩しさも、なかなか室内だとわからないものだ。
そしてもう何ヶ月も守威はずっと、昼夜問わずこの世界のみで生活している。



永久凍土の下で