25

“必ずこの街に帰ってくるわ。だから絶対、また見つけてね。私は、貴方を待ってるから”

小鳥が囀るような、澄んだ声だった。
ひなたの光ような、あたたかい声だった。
何もなかった世界で、ただ彼女の存在だけが彼に希望を与えてくれていた。
少年はあの日、その優しい声に泣きそうになりつつも強く何度も頷いた。
君が外の世界を見たいと言うのなら、自分がいくらでも見せてやる。
君がこの世界以外いらないと言ったなら、自分もその隣にずっといよう。
少年は、もうあの頃のように右も左も、善悪の区別もはっきりわかっているかいないかの子どもではない。
もう一度彼女と出逢ったなら、決してあの手を離したりはしないと誓う。

“放っとけよ!なんで今更、今更そんな、兄貴みたいなこと言うんだよ…っ”

――けれど本当にそんなことが、自分に出来るのだろうか?



「おい、篤」
「――っぅ、!」

テスト返しが終わり、生徒が教室から次第に去っていく中。
隼斗にとん、と肩を叩かれた篤は、びくりと大袈裟にその身体を揺らして我に返った。
手には先程返してもらったばかりの数学の答案用紙が握られていて、鞄がその紙切れの収納を待ち望むように口を開けている。
寝ていたのだろうか。立ったままで?否、そんな器用なことは自分には出来ない、と篤は思う。
ただ、昔のことを思い出していた。
幻想的で、夢のようで。おそらくだが人生で最も幸福感を味わい、そして呆けていた頃の記憶。
今更どうしてあの日のことなんて思い出すのだろう。
勿論、忘れていたわけではない。けれど今は思い出すべきではないものだったはずだ。
頭の片隅には置いておかなければならないが、思いを馳せてはいけない記憶。
兎に角握っていた答案用紙を鞄にしまって、浅く息を吐けば、再び隼斗が今度は肘で篤の身体を突いた。

「篤?」
「――ぁあ…、ごめん。どうしたの?」

首を傾げ、眉を顰めながらこちらを覗き込む友人に、篤はいつものように曖昧に微笑んで言葉を返す。

「オレらこれからどっか行こうと思ってんだけど、お前も来ないかって」
「おれも?」
「そうだ。体調よくないなら流石に無理には誘わないけど」
「そんなことないけど…。でも、うん、おれはいいや」

隼斗はテストが終わると、そのぶん詰めた鬱憤を晴らすかの如く、友人何名かと決まって何処かへ寄りたがる。
ゲーセンにいびりたったり、ご飯を食べたり、カラオケに行ったり。
隼斗の暑苦しい性格もあって、女子が来ることはなかなかないのだが、そのぶん類は友を呼ぶというもので似たようなテンションの賑やかな男子が集結する。
そして、何故か決まってそのメンバーの中に篤も毎回誘われるのだ。この隼斗が誘ってくる。
その勧誘に首を縦に振ったことは、彼と知り合って二年目である今でもないが。
教室のドアのところには、もう帰り支度を済ませた隼斗の友人たちが無駄に大きな声で賑やかに騒いでいた。

「お前っていっつも来ないよなぁ。家で何してんだよ、勉強?今ぼんやりしてたのも勉強のしすぎか?それなら息抜きって必要だぞ?」
「本当にそういうのじゃないって。ただ――」

他にも何かと隼斗は大勢で何かをすることを好む。
帰りにまっすぐ家へ向かうなど、ひょっとしたら彼にとっては一週間に一回あるかないかぐらいかも知れない。
隼斗ほど極端なのも如何とは思うが、篤のように毎回必ず家に帰るという男子高校生も恐らく珍しいことだろう。
バイトもしていなければ、時々食材や日用品の買い物にだけあくまで最低限向かう。
篤だって懲りずにこんなに誘ってくれる友人を、ただ煩わしく思って拒んでいるわけではない。
寧ろ一度ぐらいなら――とそろそろ首を縦に振ってしまいたい衝動だってないと言えば嘘になる。
馬鹿みたいに騒ぐ風景に馴染む馴染まないの問題はさておき、憧れるときだってあるのだ。
家に帰ったところで、笑顔で母が迎えてくれるわけでも父が早く帰って色々話してくれるわけでもない。
誰も篤の帰宅を向かえてもくれないし、恐らく鬱陶しがられている。

「弟が、いるから」

しかし篤が隼斗の頷きに乗ってはいけなかった。
遊びに行ったところで、家族は誰も篤を咎めはしない。
深夜に帰宅したって、生存報告として連絡さえ留守電に残しておけば誰も気に留めないのではないだろうか。
けれど他人がどんなに無関心で篤の行動を放っておいたからといって、それは篤自身が決して許せないことだからだ。
帰って、“彼”と少しでも一緒に。“彼”をもう独りにしないように。

もう二度と、あんなことを繰り返さないために。

「?、お前弟いたのか」
「いるよ」
「年離れてるのか?何歳?」
「…一つ、下」

篤は帰らなければいけない。帰るしか、出来ることがない。
帰って一人でも、諦めずに帰るしかない。
ひょっとしたら起こってくれるかもしれない奇跡に掛けて。
一つ下の弟の為に必死に家路を急ぐ高校生は、恐らく他人から見ると随分滑稽だと思う。
だが篤の答えに、隼斗は「今年からおんなじ高校生か、いいな」と能天気に笑っただけだった。
するとそのタイミングで、教室の外にいた友人たちがこちらを見ながらまだ行かないのかと催促してくる。

「まぁ今日は一段と呆けてるし見逃すけど――今度。絶対今度また誘うから覚えとけよ」

ドア向こうに適当に返事をした隼斗は、最後にまた眉根を寄せると、そう言って篤の額を小突いて教室を後にした。
人が少なくなった教室で、篤は一人もう入れるものもない、開きっぱなしの鞄を見つめる。
帰りたくない、おれも行きたい――そういえば隼斗は引っ張ってでも篤を連れて何かあったのかと相談に乗ってくれるだろうが、そんな女々しくて格好悪いこと、出来るわけがなかった。
それにまた、篤は今もきっと、さも自分が被害者のような顔をしているのだろう。

嗚呼こんなとき彼女がいれば、きっとびしりと背中を叩くかの如く一喝してくれるのに。



安心させてよ