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他愛のない話をしながらいつものように悠乃と、朝に待ち合わせしている信号のところまで一緒に帰り、満月は一人玄関の扉を開けた。
しんと静まり返った室内は、そろそろ暗く鳴ってきているのに光一つ点いていない。
満月が変に張り上げて口にした帰宅の言葉にも、勿論返事はなかった。
しかしそれでも、満月は然程気にせずローファーを脱ぎ捨て、躊躇いなく自らの家へと上がる。
取り敢えずリビングへ行くと、適当に電気を付けてテレビの横に鞄を放った。
そしていつものように、電話の真上。ホワイトボードに書かれた文字を確認する。
母の帰宅は早くて十一時か、それ以降。一方で、今日は珍しく父が夕食までには帰って来れそうだ。
下手するときちんと顔を合わせるのは一週間ぶりかも知れない。
朝時々見掛けることはあるが、大抵父は満月が起きる時間には既に玄関で支度をしているか、既に仕事へ向かったあとのことが多かった。
母の仕事はそこまで忙しくはないはずなのだが、最近は色々とやることがあるらしい。
バリバリの営業マンである父と、スポーツジムでトレーナーを務める母。
そんな間に生まれた娘が満月だ。
朝母が無造作に干して行った洗濯物を、母にそっくりな動作で取り込みながら満月は思う。
もっともっと、自分にもやることがあればいいのにと。

小学生の頃は学童保育でお世話になったり、祖母が家で待っていてくれるかのどちらかだった。
中学になると、友達と放課後遊びぶことが多くなり祖母を呼ばないようになり、そのぶん帰宅した時の寂しさを知った。
高校になって、次第に上がった父の位にますます向き合う時間が減ったように感じる。
ある程度の年齢になったこともあり、もうあまりこちらを親も気に掛けていない。否、大丈夫だと満月が言った。
だが、満月は静かなことが嫌いだ。
何かしていないと落ち着かない。
他愛のない話でいいから、口を動かしていないと気になってしまう。
だからってそれを理由に夕食直前もしくは直後かもしれないこの時間に友人に電話をして、話をしようと持ち掛けるのは悪い気もする。
なので満月は、テレビの音声を比較的大きめに調整して、出来る限り間が出来ないようにする。
腹を抱えて笑うほどではないバラエティーを、口をへの字に曲げて見た。
父の帰宅するであろうと書かれていた時間帯――七時まであと十五分。
洗濯物を畳んで冷蔵庫の中を確認して、母が作り置きしておいてくれたご飯を出して、こうしてテレビを眺めるまでがたった十分。
テレビを眺めている時間がそれこそたったの五分なんだと思うと、十五分はとてつもなく長い気がする。

「――ぁ、」

そこでふと急に思い立った満月は、テレビをつけっぱなしにしてソファーから立ち上がった。
帰宅直後にテレビの横に放置した、鞄を抱えて階段を駆け上がる。
父が帰ってくるならば、制服で夕食を食べるわけにはいかない。皺になると小言を言われる――そしてそれは、おそらくすぐ母に伝わってお説教へと姿を変えるだろう。
一人であればそのまま食べて風呂に入って寝て、のレベルで構わないのだがこれはまずい。
部屋につくなり真っ白いブラウスに手を掛けると、満月はクローゼットから適当に服を引っ張り出して手早く着替えた。
さも帰宅して用意周到、だらしのない娘の姿なんて頑張っている親に曝せるわけがない。

そしてそれは満月にしては超スピードのつもりであったが、部屋の扉を開けて今度は階段を降りようとすると、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
カチャリと響く鍵の音は、間違いなく父のものだ。
改めて猛スピードで洗面所へ向かい、洗濯機にブラウスを放り込んでまた玄関へ戻る。

「お父さん、おかえり…!ち、ちょっと早くない?びっくりした」
「あぁうん、ただいま。早いって、まぁ予定時間より五分くらいじゃないか」

丁度こちらに背を向けて堅そうな革靴を脱いでいた黒髪の男は、スーツのジャケットを脱いで、ネクタイを緩めながら振り返って微笑んだ。

「なんか満月の顔、久々な気がするなぁ」
「今日の朝も一応会ったじゃん」
「行ってくる、ぐらいしか話してないだろう」
「それでも充分だよ」

実際満足ではなくても、顔が見れればそれでいい。
ひどい日には、満月が寝て遅くに父が帰宅して、翌朝父が先に家を出て満月が起床することだってある。
それに比べればこうして会話が出来るだけよっぽどマシだ。

「今日の晩御飯ね、ハンバーグだよ。お母さんが作っといてくれた。早く食べよ」
「先に座っといてくれ。着替えてくる」
「はーい」

リビングの横を通り過ぎ、満月の横も通り過ぎて、先程の満月とは違いゆっくりと階段を登っていく父の背に返事をする。
もしこの出迎えの際に、制服を着ていたら満月も強制的に二階送りにされたことだろう。
満月はリビングと繋がったダイニングテーブルに冷蔵庫から出した皿を置くと、いそいそと用意を始めた。
お茶を用意しようとしたところで、ふと並べられているグラスが四つあることに手が止まる。
三つは見慣れた普通のガラス製のコップだが、一つはどちらかと言うとお酒を飲むときに使いそうで下の方にパキパキとした装飾が施されていた。
満月は二人の親のどちらかが、こんなグラスを使っているところは見たことがない。

「何飲むんだっけ?」
「え?――あぁ、いや。普通にお茶でいい」

着替えて現れた父に笑って首を傾げると、少し驚いた表情をしたあとに慌てて首を振られた。



なんでもできるね