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一方で、満月は悠乃のいない今朝、普段悠乃と待ち合わせしているところからもう少し進んだ坂道の大きな樹の下で、同じく出逢ってから一緒に登校することの多くなった椿と待ち合わせをしていた。
いつもうより少し早く家を出たつもりだが、やはり何故かその樹が見える付近まで辿り着いたその頃は、待ち合わせギリギリの時間となっていた。
坂の上に見える黒い少女の影に、いつも悠乃と二人の際、相手の姿を見るなり小走りに走っていたように満月は駆け出した。
しかしふと近づいてみると、どうやらいつもと様子が違う。
待ち合わせ場所には椿だけではなく、学ランを纏った長身の男が立っていた。
椿の友達かとも思ったが、彼から顔を背けて背を向けているその様子は、なかなか“友達”の一言では片付けてしまうには複雑なものが窺える。
では彼氏と喧嘩中かとも思ったが、それにしては雰囲気が変だった。

「椿、おはよう」
「あっ…満月ちゃ――ううん、満月、だよね。おはよう」

近づいて声を掛けると、ようやくこちらに気付いた椿が眉根を下げてた顔であいさつを返してくれる。
彼女の心底困った、迷惑していると言ったその表情に、満月は何気なく椿の向かい側――満月の隣にいる男に視線を向けた。
黒い学ランに翡翠色の瞳。土色の髪が、木漏れ日を浴びてところどころ輝いて見える。
パックの飲み物を口にしていた彼は、満月の視線を受けて少しだけ頭を下げた。
満月も倣って頭を下げるが、何処の誰かも知らない彼に、何故か既視感が拭えない。
だが相手は何食わぬ顔でパックの飲み物を啜るので、ひょっとするとこちらの気のせいかも知れない。
軽く首を傾げていると、椿が珍しく満月の袖を引っ張った。

「行こう」

その赤い瞳がゆらゆら揺れているのを見て、満月は椿の言うことに従った。
珍しく椿が先陣を切って歩いていく後ろに、満月がついていく。
そして、その後ろに長身の彼も続く。
やはりどこかいつもと違う椿の雰囲気に、満月はただ唇を閉ざして足だけを進めた。
ただしどうしても気になって時々後ろを振り返ってみれば、眉一つ動かさないその翡翠色の双眸と視線が交わる。
パックをくしゃくしゃにしつつある彼は、いつの間にか新しく右手にサンドイッチを持っていた。
朝の登校であるはずなのに、彼の周りだけ昼休みに見えなくもない。

「ねぇ、椿――」

どうしても気になったその存在に、黙っているも性に合わなく、遂に満月はぐんぐん進む椿に声を掛けた。
前を振り返って、彼は一体誰なのか問おうとした。
しかし満月が彼から視線を戻し、前を振り返るや否や、何故か椿がピタリと足を止めていて、その背に激突した。
慌てて異議を唱えるか謝罪を述べようとするものの、椿はそんな満月に構わず振り返る。
その瞳はやはりゆらゆらと揺れていて、困っているようで怒っているような、そして今にも泣き出してしまいそうな色を帯びていた。

「あの…!」

さらにそのまま、半ば怒ったように少しだけ声を張る。そんなことしなくたって、真後ろの満月には充分聞こえていると言うのに。
あまりに急な展開にそんなに強くぶつかりすぎたのかと、満月は焦って身構える。
それとも真面目な子なので、待ち合わせギリギリだったことに堪忍袋が切れたのだろうか。
どっちにしろ、やばいと思った。寧ろ今上げた両方に怒っているのかも知れない。

「ご、ごめん。そんなに怒ってるとは思わな、」
「つ、ついてこないで…!」
「へ!?」

“ついてこないで”って、時間ギリギリの衝突事故はそんなに大きな影響を及ぼすものだったのか。
否、でも先程“行こう”と満月を誘ったのは紛れもなく椿の方だ。
それに、学校はあくまで黎花の少し向こうであり、ついてこないでと言われるとなかなか難しい。
突然の言葉にわけがわからず満月が絶句していると、その椿の言葉に淡々と返してたのは満月を挟んで後ろにいた長身の彼だった。

「生憎俺の学校もそっちでな」
「そう、だけど!それでもついてこないで…!」
「まだ怒ってるのか」
「…、怒って、る。怒ってますっ」
「…そうか」

弱々しく頷いて、それから精一杯力強く声を張り上げた椿は、そう叫ぶとまた足早に歩き出す。
どうやら椿は、満月に怒っていたのではなく、その後ろの彼に怒っているらしい。
妙に緊張してしまったこともあって唖然としていると、男も椿の後姿を暫く見送ってから、ゆっくりと目を臥せた。
表情は然程変わらないが、先程からずっとパックの飲み物を啜っていた薄い唇は小さな溜め息が零す。
どうしていいかわからない満月は、二人の姿を交互に見て立ち尽くす。
他の生徒がどんどん隣を通り過ぎて行って、その先頭を椿は振り返りもせずにぐんぐん進んで行く。
満月が後ろについて来ていないことも気付いていないようだった。

「…何したの?」
「…大したことじゃない。ただ、ずっと俺に対してあの調子だ」

何処となくぽつりと彼に尋ねてみると、同じようにぽつりと洩らすような返事がくる。
ちらりと横目で窺ってみた横顔は、やはり椿同様困ったように揺れているように思えた。
黒い学ランに困った翡翠色の瞳。光に照らされて輝く土色。

――あ、

そこで満月は、ようやく覚えていた既視感を解決する。
この長身の少年は、初めて黎花を見、椿に出逢ったあの日。自販機でぶつかった少年ではないか。
慌てて顔を挙げると、しかし満月が言葉を紡ぐより先に自販機の彼の方が先に言った。

「…いいのか。あいつ、どんどん進んでるけど」
「え?あ。よくない!――ごめん!」

言われて今度は改めて前を向くと、どれだけ足が速いのか、もう椿の姿は手のひらより小さいサイズになっている。
鞄を持ち直して少年に謝罪すると、満月は再び椿を目指して走り出した。
やはりあの日同様、生真面目すぎる彼は椿が言ったことを気にしたのか、こちらが振り返って姿が確認できるあいだに歩みを進めることはなかった。



妥協は許されない