16

一緒に登校している満月に昨夜の間に連絡をしておいた悠乃は、いつもより十五分くらい早く家を出て学校へと向かった。
いつも満月と来ている時はホームルームの始まる五分か十分前で、クラスの子もほとんど揃い、運が悪ければもう担任が配布するプリントの支度をしていたりする。
そして悠乃は自分の隣の席の彼が、いつも悠乃達がやってくるその時間ぐらいに何冊かの本を抱えて毎朝席に着くのを知っていた。
鞄は教室に置いてあるようで、それならばおそらく登校して来る時間はこのくらいだろうと目星をつけた。
そもそもあまりに早すぎても図書室は開いていない。
気持ちだけやけに急いで上靴に履き替え、足早に教室の扉を開けると、いつもと違い教室内の人は少なかった。
予想は当たっていたようで、その中に悠乃の隣の席で鞄から本を取り出している長髪の彼がいる。ひょっとしたら今日は休みかとも思ったが違った。
適当に挨拶すると、悠乃はさらに歩幅を広げて自分の席へと急いだ。

「おはよう、赤月くん」
「…」

自分の席に鞄を置いて、にこやかに挨拶する。
返ってきたのは最早慣れが芽生えつつある冷たい視線だけだったが、それに構わず悠乃は続けた。

「体調、大丈夫?」
「…」
「昨日あれからいなくなっちゃったから心配してたの」
「…、そう」

取り出した本を確認しながら、彼は時々適当な返事をする。
三冊の文庫本を取り出し終えたところでそのまま腕時計をちらりと確認してから、それらを抱えて席を離れようとする彼を、慌てて悠乃は声で止めた。
彼と話しにきたのに、また逃げられては堪らない。
どうにか彼を留めなければと話題を探るものの、こういうときに限っていい話題は浮かび上がらなかった。
まさか彼に、昨日見た歌番組の話をするわけにもいくまい。
きっとそんなことをしたら、それこそ二度と口を利いてもらえなくなる気がする。

「えっと。あの、…そう」

かつてないほど脳をフル回転させながら、悠乃は考えた。
そこでふと、根本的なところに触れていないことを思い出す。
言葉に詰まった悠乃に少しだけまた眉根を寄せた彼は、そのまま悠乃を無視して教室から去って行こうとした。
しかし、その間際に悠乃が口にした言葉に少し間を置いてから振り返る。

「昨日、手に触ってしまってごめんなさい。親しくもないのにあぁいうことされたら困るわよね、帰ってよく考えたんだけど私の配慮が足りなかったわ――…って、なに?」

やはり昨日の父にそっくりなその表情と、珍しく真っ直ぐこちらを捉えた視線に、悠乃は思わず首を傾げる。
また何かしてしまったのかと思ったが、そんなマシンガンのように一方的に話したつもりはないし、もう無理矢理彼を制止さてもいない。
じっとこちらを睨んだ彼は、一瞬だけ視線を逸らしてから眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、小さく息を吐いて改めて悠乃を見据えた。

「――どうして君が謝るの」
「え?」

静かな問いが降ってきたのは、それからすぐだった。
何を言われたのか最初はわからなかったが、それも束の間珍しくまた彼が続けて話してくれる。
父といい、珍しいことは案外続いて訪れるものなのかもしれない。
そして次の一言が、昨日から悠乃が抱いていた疑問を解消する鍵となった。

「…叩かれたのは、そっちじゃない?」
「――あ、」

彼の視線が自分の右手に向いていることに気付いた悠乃は、そこで今日初めて右手に触れた。
昨晩もあれだけ気にしてはいたものの、それはおそらく今彼が抱いている感情とは違うもので、こうして学校を訪れればいいと勝手に解決させた悠乃はもう今朝から気にしてもいなかった。
勿論改めて見直したところで、一晩の間に手の甲が腫れたとか怪我を負ったそういう事実はない。
突然の出来事と音に驚いただけで、あの時の衝撃は特別痛いものでもなかった。

「そのことなら平気よ、何ともなってないから。少しびっくりしただけなの」
「…」
「ほら、腫れてもないし、こうして動かせるわ」
「……、」

怪訝そうな視線を受けながら、悠乃は彼に手を差し出した。
触れこそしないものの、やはりしっかりとその甲を見、悠乃が手を動かして見せたところでようやくその鋭い視線を逸らす。

「――…それなら、よかった」

それから改めて悠乃を一瞥した彼の目が、小さく呟くようにそう言って、揺れたのを悠乃は見逃さなかった。
やはり悠乃の思っていたことは間違いではなかった。
彼は悠乃を、ただ五月蝿いと頭ごなしに拒絶しているわけではない。
それならこんな風に鬱陶しいくらいお節介な人間を叩いたことを気にしたりしないだろうし、こんな風にその為に表情を揺らがせたりしないだろう。

「あ、ちょっと」

しかしそんな思考も束の間、その謝罪に返すべき言葉がなんなのか迷っていると、もう彼は三冊の文庫本を持って教室からいなくなっていた。
彼に近づけたようで、嬉しくなったのもほんの一瞬だ。

ホームルームが始まる直前になって、いつものように戻ってきた彼に話しかけてみたが、もう特別な言葉を返してくれることはなく、冷たい視線だけが一瞬応えてくれるだけの元の状況に戻っていた。
果たしてあれは、夢だったのだろうか。
こんなことなら少しは痛がって、もう少し彼の思考を占めていてもよかったのではないかとさえ思う。
流石にそれは、意地が悪いが。

「…はぁ、」

やはり嫌われているのだろうかと洩らした吐息に、笑ったのは遅刻ギリギリにやってきた満月だった。



王者の貫録