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好きなアーティストがテレビの中で、マイクを握り高らかに歌っている。
かわいらしい声とその容姿、女子なら誰もが惹かれる恋物語を綴ったその歌声は何もかもが悠乃の理想だ。
今日も学校で満月と話しているときに、この歌番組に出る彼女の名前を挙げて盛り上がった。
しかしテレビ正面のソファーに座り、リビングでこうしてチャンネルこそ流すものの、悠乃はテレビの画面には目を向けず、ずっと真っ直ぐ伸ばした自身の右手の甲を見つめていた。
隣の席の彼に、今日の昼前に叩かれた箇所だ。“叩かれた”とその表現には些か語弊があるが。
あれから数分間あつい熱を持っていたが、生物室へ向かい教師に適当な言い訳をつけている間にその痛みは引いてしまった。
今ではもう熱は愚か、何の跡も残っていない。
最初の会話も兼ねて思い返しても、やはりひどく頑固でめちゃくちゃな人だったと思う。
絶対あれは、気分が悪かったもしくは体調が優れなかったのだ。
現に彼は三限は愚か、あれ以降教室に姿を見せなかった。
いくら最初の会話のこともあって悠乃にいい印象を抱いてないとしても、そこは頼ってくれていいと思う。
あんなフラフラした足取りで無事保健室に辿り着けたのかも心配だ。
もうここまでくるとやはり悠乃の思った通り、彼は“人との接点を極力(中の極力レベルで)避ける”人に違いないだろう。
オブラートに拒絶すればまだいいのに、はっきりバッサリやるものだから尚更性質が悪い。
学校生活はまだまだこれからであるのに、一人で何もかも出来ると思っているのだろうか。

しかし唯一、そんな彼が悠乃のこの手を叩いた際、一瞬見せた顔が気にかかる。
自分でもとても驚いていたような――始終つらそうに見え、それでも放っておいてくれと主張していた美貌には、あの一瞬だけ明らかに悠乃へ向けての焦りが浮かんでいた。

「――隣、いい?」
「?、えぇ。勿論」

悠乃の好きなアーティストが、一曲歌い終え頭を下げたところで不意に声を掛けられる。
そこで初めて視線を手から横へと逸らした悠乃は、こちらを見て微かに微笑んでいる隻眼の男の言葉に笑顔で頷いた。
悠乃と違う軽く紫を帯びている黒髪は、きちんと切り揃えた悠乃の卒業式から少しだけ伸びてきていて彼の左目を軽く覆い隠している。
その中でも輝く悠乃と揃いの空色の瞳は、母から悠乃が生まれた際間違いなく遺伝子として受け継いだものだった。
自分のマグカップと悠乃のマグカップにお茶を淹れて運んできた父は、娘の許可を得てからゆっくりとソファーに腰を下ろす。
曲が止み、番組MCが何かを話している音が響くようになると、少し離れたキッチンで母が夕食の食器を洗っている、水の流れる音が目立ってくる。
流石に父の横で手を掲げ続けるわけにもいかず、悠乃は父が持ってきてくれたマグカップを傾けながらぼんやりと次のアーティストが現れるのを待つ。
すると父が、重ねて悠乃の名を呼んだ。
普段口数が少ない割に、一分も経たないうちに続けて話されて少しだけ驚く。
けれどすぐに、また笑顔で返事をする。

「学校、どう?」
「どうって――普通よ。沢山友達もできたし、楽しいわ」
「…よかった。オレに似なくて嬉しいよ」
「ママ似でこれってわけでもないと思うけれど」

安堵の息も零しながら、困ったように微笑む父にまた笑う。
夫婦、親子と寧ろ仲はいい方であると思うが、親がどちらも自分から口を開かないタイプなので悠乃や兄が口を開かない限り、きっかけとして食卓が静かなことは多い。
兄は今日遅くなると言っていたので留守で、こうして色々考えていた悠乃が黙っていた今の玖白家では、気まずくなるわけではないもののテレビの音だけが頼りだった。
しかし珍しく、こうして父が娘の横へやってきて唇を開いた。
たった二言でそれは終わったが、どうやら父なりに近状報告のない娘の学校生活について心配してくれていたらしい。

「ねぇ、パパ」

ならば折角なので、父に尋ねてみようか。
父は特に母と出逢った時期でもある高校生時代、悠乃のように大人数で盛り上がったりすることは多くなかったと聞いている。
いつも特定の一人二人とは一緒にいたが、それ以外の関係は当時ほとんどなかったそうだ。
男であり口数が少ない父なら、悠乃よりはあの彼の気持ちがわかるかも知れない。

「本当に歩けないくらい気分が悪くて、それでも誰かに構われたくなくて。それなのにたまたま通りかかったクラスメイトが、鬱陶しく世話を焼いたらどう思う?」
「え?…それは、悠乃が世話を焼いた方、ってことでいいのかな」
「…まぁそうなんだけれど。それでね、手を貸そうかって言ったんだけど拒否されちゃったの。フラフラのまま階段を上がろうとするから、手を掴んだらその手を叩かれたわ。けどその時その子、何か言いたそうにしてたの。けど、やっぱりすぐに何処かへ行っちゃった。あまりに嫌がられてたのと今叩かれたことにびっくりしてたのもあって、私追いかけられなかった。そんなに話したこともないと思うんだけれど、私嫌われてるのかしら?」

その子は、悠乃のことをやはり鬱陶しいと思って逃げたのだろうか。
じゃあ何故あの時、拳を作ったのか。
あのたった一瞬、悠乃に言いたかったこととはなんだろう。
簡単にわかるようなその答えが、喉のところで何かにつっかえていてはっきりとわからない。
もう一度こっそり右手を眺めて、隣を振り返ると父がこちらを向いて珍しく眉根を寄せていた。
あの時の彼も、こんな顔をしていたなと思う。

「…どうしたの。パパのそんな顔久々に見たわ」

前見たのは、確か兄が突然彼女が出来たと報告し、容姿について尋ねるとある程度の説明をしたあと〆として悠乃の方が可愛い、とか頭のぶっ飛んだことを言った時だっただろうか。

「さっきから、なんで右手ばかり見てるのかと思ってたんだ…」
「見てたの?」

悠乃が首を傾げると、テレビにようやく別のアーティストが現れた。
次はどうやら数人グループの男性ユニットらしい。
悠乃も知っているし流行ってはいるが、正直あまり興味がない。

「…そのクラスメイトって男じゃないよね?」
「――…。まさか」

前奏が奏でられると同時、父は娘の言葉へあろうことか質問で返す。
悠乃は彼らが歌いだすそのタイミングまで奇妙に黙ってから、また微笑んで父の言葉を否定した。

「…あなたにそっくり」

食器を洗いながら呟いた淡々と母の言葉は、激しい男性ヴォーカル掻き消されて、奇妙に笑い合う父と娘にもう届くことはなかった。



受け継がれるモノ