14

ぐらり、と覚えた世界が暗転する感覚に少年は足を止めた。
思わず後ろに倒れそうになったところを、何とか横の手すりにしがみついて回避する。
手にしていた次の授業の用意である教科書やノートがばらばらと落ちていく音が、どこか遠くに感じられた。
身体の奥底から微かに湧く不快感に、俯いて額を押さえたところで重ねてカシャン、と何かが落下する。
ぼやけた視界に、ゆるやかではあるが目が回ったかのような眩暈。

もうすぐチャイムが鳴る――不幸なことに授業開始直前のその階段に、生徒は愚か教師一人でさえ通りかかることはなかった。
何も拾えないまま思わず蹲って、ただその不快感が少しでもマシになるのをひたすら待つしか手段はない。
普段は然程気にならないが、こういう状況に陥るとやはり自分一人の限界を感じる。
自身で拒んでおいてこんなことを言うのは愚かだと知りながらも、今誰かが隣にいてくれたらと思わずにはいられないのだ。


自分は、結構ぼんやりしているのだと思う。
否、中学校では記憶にある限りでは忘れ物をしたことがない。
ひょっとしたら、だからこそ気が緩んでいるのか。
移動教室である次の授業を最早一分あるかないかのところで控えていた悠乃は、そんな時間にも関わらず、もう誰もいない教室でひたすら自分の机の中身を引っ掻き回していた。
現代文の教科書を忘れるだけでなく、危うく生物の教科書も忘れるところであった。
カラフルな表紙のノートの間に挟まっている目標を見つけるなり、適当に引っ張りだしたそれらを机にまた突っ込んで立ち上がる。
教科書は無事発見したものの、歓喜も安堵する暇もなく、今度は授業遅刻の危機に瀕するのでそれを回避しなければならない。
一階から三階までの階段を数十秒で駆け上るのだと思うと絶望的だが仕方ないだろう。
ただ唯一幸いなのは、授業開始直前なだけあってもうほとんどの人が廊下にいないことだった。
悠乃は制服のスカートを翻し、下に穿いているスパッツが覗くのにも構わず、まっすぐ続く廊下を駆ける。
そんな最中にいつものような完璧の笑顔を見せるわけにも行かず、人並みに顔が歪んでいることが自分でもわかるほどだ。最悪だった。
更に階段まで差し掛かったところで一度息を吐いて、あと半分の距離の為に再度改めて大きく脚を開く。
しかしふと目指すべき上に顔をやったところで、周囲に次の授業である生物の用意を放り出し、手すりにしがみつくように蹲っている生徒を空色の双眸が捉えた。
悠乃は思わずそこでピタリと踏み出した脚を止める。
こんな時間にこんなところで、一体何をしているのか。
サボりにしてはあまりにも静かで、落し物を拾っているにしては周囲の物はあまりにもひどく散乱していて。
ちらりと覗いているその特徴的な容姿を、悠乃は知っていた。何度も言うが、それだけの特徴的な――そして整った容姿を見間違えるわけがないのだ。

「――赤月くん?」

スカートの裾を正して階段を駆け上ると、悠乃はその蹲るクラスメイトに声を掛けた。
一瞬だけ、その肩がぴくりと反応した気がしたが彼は振り向かない。
淡く長い髪が表情を隠しているものの、静まり返ったそこに響く、微かな呼吸にやはり少し違和感を覚える。
彼の横に落ちている眼鏡を拾って、その窺えない表情を目を凝らして覗き込んだ。
同時に、三限開始のチャイムが軽やかに響き渡るが彼を無視して生物室へ向かうわけにもいかない。

「気分でも悪いの?」
「…」
「大丈夫?」
「…なんでもない」
「…。次、移動教室よね?」

何でもない生徒が、こんなところで蹲るはずがない。
悠乃の気遣いを小さくもやはりはっきりと拒絶した彼は、改めて少しだけ大きく息を吐いて唇を閉ざす。
暫くして少しだけ顔を上げると、また肩で呼吸した。
髪の隙間から覗くその美貌は、元々が白いが照明のせいもあってか変に蒼みを帯びているようにも思える。
合わせて臥せられた菫色の瞳を縁取る睫毛も微かに揺れていた。

「誰か呼んできた方がいい?」
「…、」

尋ねれば、長い髪がほんの僅かに横に動く。
それでも彼は、微かな動きこそするもののなかなかこちらを見てさえくれなくて。
刻一刻と授業時間が経過していくのを、どうすることも出来なくて悠乃は取り敢えず散らばっている彼の荷物を掻き集めた。
蹲るその隣にそっと自分も並ぼうとすれば、その気配を察したのか不意に彼が今度こそはっきりと顔を上げる。
やはり蒼いその顔色に加え、走っていたわけでもないだろうに額にはうっすらと汗が浮かんでいて、全然何でもなくない様子とは思えない。
そっと拾った眼鏡を差し出すと、少し間を置きつつもそれはきちんと受け取ってくれる。
しかし改めて視界がクリアになったであろうところで、いつもの覇気こそないものの久し振りに睨まれた。

「君こそ、授業、いかなくていいの」
「だってあなた、」
「…俺のことはいいってば」

手すりの上部に腕を伸ばした彼は、両手で縋るようにしてふらりと立ち上がる。
そのまま悠乃から奪うように自らの荷物を受け取ると、額を押さえながら階段に足を掛けた。
すると続けて、二段も上がらないうちにその身体が大きくバランスを崩す。
悠乃はとっさに手にしていた自分の教科書を放り投げて、倒れる前に慌ててその身体を支えに向かった。
いくら細いといっても傾いた身体を、たった一人の女子高生の力で押し返せる自信はない。
悠乃の方へ一瞬だけ身体を預けた彼も、ようやく自身の状況を理解したのかまた小さく息を吐き、眉根を寄せてから身を離す。

「…保健室まで、手を貸しましょうか?」
「――…いらない」

そう言われたって、知り合いが困っていれば手を差し伸べるのが普通だ。
それにここまでふらふらだと“普通”を超えて“心配”に至る。
あまりの頑固さに流石の悠乃も思わず一瞬だけ眉を吊り上げた。
一方で落ちた自分の荷物を拾うと、少年は改めて背筋を正す。あろうことか長い髪をさらりと揺らしてまた階段を上っていこうとするのだ。
危なっかしい足取りで去ろうとする彼を引き留めようと、悠乃は思わずその手を掴んだ。
触れただけでわかるほど今の彼の体温は異常なくらい高い。
だが手が重なったその瞬間、ぴくりと指先が動いたかと思うや否や、少年は悠乃の手を思いっきり振り払った。

「っ、!」

刹那、パシンと乾いた音が階段に木霊する。
払われた手の甲が、彼とは違う意味でじわりと熱を持った。
その音に慌ててこちらを振り返り、僅かに見開かれた菫色。そして呆然とする空色。
二人の視線が交わったところで、先に彼の方が何か言いたげに目を細めて顔を逸らす。
その瞬間強く握られた拳を、悠乃は見逃さなかった。

「…っ待って、赤月くん…!」

しかし声を掛けようとすれば、ゆらりとした足取りで、それでもあくまで足早に彼はその場から去っていく。
二階に差し掛かったところでその影は生物室とは逆方向へ向き、そのまま悠乃は追うこともせずただ廊下で立ち尽くしていた。



下を向いて歩こう