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「で、さっきの“そのこと”って何かしら?」

満月の背が遠のいて見えなくなったのを確認してから、悠乃は少し眉根を寄せて椿を振り返った。
茜色の空はもう下から青を帯びてきて、あまり時間がない。

しかし我儘という単語から程遠い彼女が、どうしても今日じゃなきゃだめだと言ったなら、おそらくそれなりの理由があるはずなのだ。
椿は歪んだものを見逃せない警察官向きレベルの正義感こそ持っているが、我を通したりしっかりとした意思を振り翳すのは苦手だ。
あまりのことだと時にそれは噴火して、熱いどろどろのマグマを放つものの、そんなところは悠乃もたった一度しか見たことがないので一ヶ月云々のこの期間では流石に問題にはならないだろう。
寧ろあるとしたらそれより、ひょっとすると誰かにいじめの標的にされたとか。そちらの方が大いにあり得る。
しかもそれなら悠乃は、例え学校が違っても守ってやらなければならない。

いつまでもまだ歯切れ悪く言葉を紡がない椿に、悠乃も色々思考を巡らせてそろそろ腹が立ってくる。

「本当に――何があったの?椿がこんな風に私を頼ってくるなんて滅多になかったから心配だわ」

呆れたような浅い息を吐いて改めて、眉をハの字にして俯く親友を促す。
呆れていることは事実だが、怒りたいわけではない。
これではまるで新学期の娘を心配する母親のようだ――ぼんやりとそう考えていると、小さな声がようやく微かにだが応えてくれた。
制服の色故により一層引き立つ白い手が、ぎゅっと胸元の赤いスカーフを掴んで震えている。

「…どうしよう。私、わけがわからなくて」

そうして、泣きそうな声でそう言った椿は顔をあげるなり空色の瞳を必死に見つめ、今までの反応が嘘のように一息に言葉を口にした。

委員会決めで、なかなか立候補が出ず、くじで学級委員に当たってしまった。
しかし男子の学級委員が、当たりを引いたにも関わらず嫌だと言ってきかなかった。
すると近くの友人が、彼の代わりにやると言う。

往生際の悪いその対応と、どこか偉そうな拒絶に腹が立った。いけないことだと思った。
こんなことを一つ許せば、くじのそもそもの意味はなくなるからだ。
だから咎めた。誰もがそれで決まるなら、自分に関係がないと目を逸らすなか、椿はいてもたってもいられずそれを指摘した。
すると先程まで無言で顔色一つ変えなかった彼が、やはり顔色一つ変えず――だが立ちあがるなり頭を下げた。
頼むから、お願いだから、どうしても出来ないから友人に頼みたいのだと言う。
おかしい。とても気持ち悪い。わけがわからなかった。
そういう問題ではないのに、あまりにも彼が潔く今度は自分の非を認めて。それでもやはり決して結果を譲ることはなくて。
唐突に襲った、まるで自分が善人なる市民を追い詰めてしまったような得体の知れない感覚に、椿は言葉を失うしかなかった。
気付いた時にはもう何もかも遅くて、何一つ椿の行いたかった粛正は得られず、きれいさっぱり丸め込まれてしまった感覚。
けれどもうそれをも指摘する度胸は椿にはなかった。
結局ホームルームが終わった頃には、昨日まで話しかけてきてくれていた女子の姿もなく。呆然としていたら一日は終わっていた。
自分は――間違っていたのだろうか。

一連の流れを聞いて先程まさかと思いながら否定した、一つの“噴火”の的中に悠乃は大きな吐息を洩らした。
やらかしてる――それと同時に浮かんだのはただただ困ったという単純なものだった。
悠乃ならこんな同級生がいれば面白いと話し掛けるだろうが、いないとは言えないがそんな物好きクラスに一人といるものなのだろうか。
その話に出てきた男子も、単なる我儘というよりは何か複雑な事情でもあるように思える。
その男子は一体椿のことをどう思ったのだろう。鬱陶しい、取り敢えず折れとくか――そんな心境で、果たして椿が言い淀んでしまうほど丁寧に頭が下げられるとは思えない。
そう、悠乃なら真っ先に彼本人に話に行くだろう。
どうしてそんなことをしたのか――知りたくて堪らなくなる。
きっと椿もそれは同じだ。けれど度胸がない。こわいのだ。
顎に手を当てたまま少し考えて横を見ると、不安でいっぱいな椿の瞳が真っ直ぐこちらを頼ってきている。
その何とも形容しがたい感情は、少しではあるものの今の悠乃にもわからなくはない。
目を臥せれば、ちょっと前に黙れと注意してきたクラスメイトの美貌が浮かぶ。

「私も。椿のその気持ち、ちょっとわかるわ」
「え…?悠乃も?何かあったの?」
「…ちょっと。でも相手の態度を思うと、椿の方がマシかもね」

驚いたように少しだけ目を瞠って、心配そうに声を掛けてくる椿に悠乃は困ったように肩を竦めて笑って見せた。

「私の方は別にいいのよ、大したことじゃあないし」

その視線を掬うように汲んで、そっと名の如く赤いその瞳と空色を重ねる。
どうしようにも種類がある。彼に対して、クラスに対して、教師に対して、昨日まで一緒だった友人に対して。

「椿はどうしたいの?あなたの望むように、私は力を貸すわ」

首を傾げて優しく促すように双眸を細めれば、椿は少しだけ視線を彷徨わせて、唇を閉ざした。
そろそろ満月も戻ってくるだろう。



ないしょ話と帰り道